Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

そうしてまた一年

 年の年初に一年間ブログを再開しようと決めてからもう364日が経過してしまった。毎日書こうと決めていたにもかかわらず、昨月は自分と家族の病気やらその他雑務やらでなんとほっとんど書けていなかったのがとても情けない事だ。毎日なにか一つの事をやる、これだけシンプルな約束は無いというのに、これをシンプルに守ることがいかに難しい事か。

かつて僕が初めてブログを書き初めて以来、このブログを書くという習慣は、日記をつけるという習慣を過去のものとしてしまった。物事を書くというのは記録するという意味のほかに、いろんな作用が働く。

  • 物事を整理して考える
  • 自分の意見とその理由を考える
  • 思考に不足している情報を補足するきっかけになる
  • 無数に存在する単語とその組み合わせにそれらを落としこんでいく
  • 後で読み返して反省する際の材料とする

ものを書いていく最初のほうは、書くことで頭の中を整理できたような気分になる。ああ、自分はこういう考え方をするやつだったなあ、よかった、ちゃんとまだ頭は働くようだ、、、とこういう風に自分を客観的に見つめ直すいい機会になって、一日を自分として過ごしたんだという証明になるような気がして安心する。

が、書いていくうちに、次第次第に、自分が本当はどういう性質をもっているのかに気がついてくる。思ったより意見がバラバラだし、気分によって考え方を変える。それによって言っていることもバラバラになってしまうし、内にも外にもいろんな矛盾を抱えている事に気付かされる。たまに感情だけでものを考えたりするし、それでいいやと思ってしまうズボラな面を強く感じてしまったりもする。

それでもいいやと開き直って書いていくと、そのうちある事に気付く。『どうやら、ブログを書いていて自分の頭を整理しているのでは無いな、ブログを書く事で整理しきれない混沌を頭のなかに毎日毎日創りだしていってるんだ。』アウトプットとしてのブロギングが、次第次第にインプットとしての役割を果たしている事に気づいていくようになり、途端にブログを書くのが怖くなった。

昔、都市伝説だかなんだか知らないが、こういう話を聞いたことがある。
『毎朝毎朝、鏡に向かって「お前は誰だ?」と言い続けると、いずれ発狂する』。この行為は、ブログを毎日書いていくという行為に、とても似ている。自分の思考を見つめ直し、そこに批評者としての立場から再鑑を与え、時として自分の感性や思考による生産物を、無慈悲に廃棄せざるを得なくなる。
こういう時、いったいブログを書いているのは誰で、モノを考えたのは誰だろう、とまるで一個であるはずの自分が、複数存在しているような気がしてくる。

そんなに深く考えて書くものではないよ、その時思った事をそのまま書くのがブログなんだよ、と誰かが昔の僕に教えてくれていたら、そんな事もなかったんだろうけども。ともかく、この一年、こういう事を感じながら(ほぼ)毎日一定時間PCに向かって座り、カタカタと駄文を重ねてきたのだった。

前回ブログを書いたとき、最後に載せたエントリは以下の『ที่ร้างの終わりに』というものだった。僕がブログを書くにあたって定めた全てのルールはとてもシンプルなものだった。

ที่ร้างの終わりに | http://d.hatena.ne.jp/solaponz/20070518

今回そんなに改めて書く事はないが、一年間はやはり楽しかった。しかし先月・先々月と物足りなさを感じた日々もあったので、もう少し気楽なものとして続けてみるのも悪くない気がしている。こうやってダラダラ続けるくらいが、ダラダラな僕にはちょうどいい塩梅なんだろうなあ。