Thee Rang 跡地

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思考の体系?

 事に対峙してそれを見つめるときに、そして触れるときに人間というのはどうも見つめたり触れたりするだけではなくそれに対してなんらかのリアクションをとってしまう性質を持っている。それは大変原始的な性質で、例えばものすごく熱いものに少しふれたりしたら本人の意思とは無関係に身体がひいてしまうし何かものすごく痛い刺激をうけたらつい声がでてしまうのは人種や性格には全く関係がない。それと同じレベルではないけども、人はそれぞれ見たこと聞いたこと触れたことに対して精神的な不覚筋動というのを起こす。しかし脳は学習し記憶するので、例えばいま大気に触れているといった感覚、黒いキーボードに手をおいてゴム辺とプラスチックでできたキーをタイプしているという感覚などは全く刺激にならず危機も幸福もないので精神的不覚筋動によって選別され破棄されているにすぎない。
 ここで選別され破棄されない情報についてどういう処理をするかは千差万別十人十色でその処理の仕方によってその人の生き方や生活というのは大きく変わってくる。その処理が判断という結果を伴う思考というプロセスだ。
 僕がこの思考というプロセスを実感したのは恥ずかしながら大学を卒業する直前のことだった。僕が就職活動をする中で、社会で独立して生きていこうという意志を持って会社を探すなら、それを可能にする会社を探すためにも、またその会社に入るためにも思考するというプロセスは絶対に必要な要素だった。そのときに、思考には方法があることを学んだ。
 思考には方法がある。僕が初めて意識的に触れた思考の方法というのはまったく衝撃的なものだった。それはとあるセミナーで聞いた言葉で、3C分析という言葉だった。はじめその言葉と内容を聞いたときはフーンと思ったくらいだったが、よくよく聞くうちにその奥の深さに気づいてきた。詳細な説明は省くがこれは主に企業について分析するときに有効な思考法で、物事をおおまかに三つの要素に分けその分類された要素を構成する要因ごとに色々とみていくという手法だ。ここまでは普通なのだが、この考え方が応用できるという事に僕は衝撃を受けた。例えば何かになりたいという風な事を考えたときに、3つの要素をそれぞれ今の自分、理想の自分、そして外部的とでもいうようにしてそれぞれの要因について考えていくときれいに考えがまとまってしまう。そしてまた何かについて思考しようと意図したときに、三つの○が三つの直線で繋がっている金型のようなものを創造して、その思考の対象の上にボトっとおとして無理やり当てはめて考えてみたりできる。これは『フレームワークに落とし込む』という風に言われていた。この分析に基づいて要素と要因とそれぞれのロジックさえ大まかに頭にいれていれば何かを喋る必要が生まれたときも一文一文暗記して挑む必要など無く、要素と要素をロジカルにつなぐだけで説得力がうまれるんだよねとかなんとか言われたときにはひたすら感動したもんだ。
 他にも思考の方法というのは腐るほどある。そういうのはいわゆるコンサルタントさん達が手法として確立したりしてたりするのが常だったりする。はっきりいってすごいと思う。なぜなら、世の中には元々すごく頭のキレる人というのがいて、そういう人はものすごい思考をしていたりアイデアを持っていたりする。僕にとってそういう人たちは天性のひらめきとか感覚、センスとかそういうのの差を思い知らされる存在だったりするが、こういう『フレームワーク』とかいう思考方法を身に付けてトレーニングするとそういう人達に迫ることが出来る。人によっては伍して戦う事もできるだろうし、超える事もできるかもしれない。レーニングさえ積めば誰でも身に付けられるという点*1は注目すべき要素で、なぜならこういう思考方法というのは人生設計、日常生活、ゲーム、人間関係、戦争、あらゆる場面で有効に働くからだ。そして、なにも道具がいらない。かつては一生追いつく事などできなかったであろう天才達への思考へ迫り、対抗する事ができる。非常に資本主義に適した手段だなーと思った。
 もちろんこういった思考方法っていうのは論理的に正しい思考ができていないと全く意味がないどころか害悪になってしまうわけで、論理思考というのは必須の条件だ。あくまで正しい道筋で思考する事ができて、はじめてそれを活かすためにスタート地点だとかゴール地点を定めるためのフレームワークを使う事ができるようになる。どんなにフレームワークを駆使して意見とか主張を喋っても、そこって論理的におかしいよねとか突っ込まれたらその努力は全て自分の愚かさを証明する最も効果的な成果だととられかねない。論理性というのは一見頑丈に見えてもその実ほころびやすいというものも多く注意が必要で、多いパターンでは例として『主張に根拠がない、もしくはズレがあった』『相関関係、因果関係を取り違えちゃった』『時間軸のブレを見落としちゃってた』というものが挙げられる。演繹的もしくは帰納的もしくはそれらを組み合わせ、全体の構造と各要素のボリュームを見誤らずに無理のないように積み上げていき結論を導くというのが論理的プロットの理想だ。難しいなー。
 まあ論理的思考、論理矛盾発見の姿勢をもってさらにこういうフレームワークを覚えているとミクロ(ビジネス案件)からマクロ(人生設計)まで自分なりの意見がつくれるわけで、さらに一貫性が伴うので説得力が増して他人の目に理解、共感されやすくなる。共感というキーワードで僕が思考したのは、きっと聖書、仏教の経典、コーランなど圧倒的な人々に支持されるいわゆる聖典というものはこのフレームワークと論理がものすごく強固なのだろうという事だ。うーんそういえばカリスマ経営者とかも神のように扱われてる事あるなー。常に筋の通った価値観を提供しているという意味で共通してるっちゃあしてるとこもあるなあ。
 哲学的疑問や苦悩からの開放にこれらの論理性、フレームワークはおそらく最適だ。僕は大学でキリスト教を勉強していた(などといったらきちんと勉強していた人達に怒られるくらい点数は悪かった)が、聖書を読んでいってその解釈をきいていると、たまに頭の中で絡まった糸のように引っかかっていた疑問や不安などが、一気にときほぐれるような覚醒感を覚える事があった。他にもそういう人はたくさんいるんではないだろうか?あれはおそらく聖書の中のとあるフレームワークにがっちりとあてはまる論理性を伴った法則が僕の頭の中の諸要素を整理した瞬間だったのだろう。実は聖書だけではなく、仏教に関連するとある本を読んでいる時にも同じような感覚に陥った事がある。まだ読んだことはないが、コーランを読んでいてもそういう感覚に陥ることはあるかもしれない。そういう意味でも、チャンスを見つけて是非コーランを読んでみたいと思っている。
 与太話だが、思考の体系は使用言語によって微妙に異なるという話をきいたことがある。ホントかどうかはわからないし、確かソースはWEB上の何かの記事だったような気がする。それをふまえて考えてみると、英語圏の人達の資本主義に合致した思考方法を日本語で育った僕が今「なんとか分析」とか「なんとか法」とかいうやり方で刷り込もうとしているんだろうか。
 僕がいま生きている日本社会のビジネスシーンでは思考の体系は時にクリティカルな状況を突破する最良の道標となるだろうし、また大きな敵を打ち破る強固な武器となる事もあるだろう。たかが思考、されど思考。よくわからない概念ではあるけれども量子力学的に言って思考によって人生が認識されはじめて人生の存在に収束すると考えたらとても御座なりにするわけにはいかないよなー、、、、そういう意味づけで思考を身に付けようとする僕はきっとまだ反射的に行動する事しかできないガキのままかな。どこかの世界的にビッグな会社は、『Think』という言葉を非常に重用している。どうやら創始者がなんかのインタビュー?でそういう事を口走ったかららしいけども、どうせ社会に出たら色々と考えなければならないものにぶちあたるわけで、考えるならうまく考えていきたいもんだ。

*1:方法論が体系的に確立されているってのはそういう事?でえーんかな。