Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

読み手に理解を強要してはならない

 ろんな文章を読んだり書いたりしてて思うことに、『君、なに読み手に期待してんの?俺アホだよ?』ってのがある。なんというか、読んでいてしんどいというか、その筆者の独自の世界観や言語感がいたるところで感じられるのはいいことなのだが、そこに入り込むのに筆者と同じ思考をさせようという文章がたまにあって、一気に読む気が失せる(というか必要でなければ読まない)。

自分のメモであれば、それでいい。事実、僕もメモのような落書き帳のような感じでこのBlogを開始したので、それでも幾許かの方が読んでいると知るまでは、かなり適当に言葉を羅列して、思いつくままポンポン書連ねてすっきりとしていた事があった。自分がすっきりしたいだけであれば、そういうメモ的な文章も全く問題がない。

しかし、誰か第三者が読んでるというのを前提として考えた場合は話が異なる。その場合、文章の存在理由そのものは誰か他人に読まれるという事であり、そこにまったく意識を置かないで文章を書くという事は、つまり存在理由そのものへの消極的否定が伺われる。それでは誰も幸せにならないし、誰も得する事がない。文章はやはり、存在理由を自明に表すようなかかれ方をすべきだ。

例えば
気に食わない表現の一つに、何の変哲もない単語を"『』"で括って書くような書き方がある。文章中でその単語がある特定の意味合いやシチュエーションで使われる際に、単語と共にオリジナルの意味付けを連想して欲しいというときにこういう表現を使うのだろう。
もちろん、単語を印象づけるための演出であったり、表現上どうしても仕方ないものであれば構わない。しかし、おこなったごくごく一般的な単語に対しても必要以上に勝手に意味づけし、かつその意味づけを読者も共有するよう"『』"で囲み記憶する事を迫ってくるような文章がたまにある。単語は単語でしかないのに、その人なりの解釈を施した単語を勝手に意味付け宣言されても、読者は簡単にはついていけない。自分で、ある単語に特別な思い入れや印象を持つのは勝手な事だが、その理解の共有を読み手に期待するのは、いささか自意識過剰というか期待がオーバーしすぎている、というような感が拭えない。
仕事でも
仕事で書く文書なんて、ほとんどのものが誰か読み手が存在していて(しかも複数)、さらに文書の目的だって明確なんだから簡単そうなもんだ。お詫び状ならお詫びをすればいいし、質問上なら質問をすればいい。しかし、これが意外と読み手に通常以上の労力や思考を強要するものが意外とあって、そういうのは上司や先輩からの指導の対象になる。誰が読むのかを考えてものを書くのは意外と難しく、ついつい楽をして読み手側の脳みそをかりてものを書いてしまうのだろう。
残念ながら、読み手は通常、よほど興味のあるものや必要性のあるもの意外は、脳のメモリをキュッと絞って最小限のエネルギー消費に抑えられるよう意識して読む。それでも無理なく内容と目的を理解できるくらい書くのが結構大事で、だいたい読んでいるのは中学校2年生だと考えて書けばレベル的には適切なものになるはずだ。無駄を省き、必要なものだけ必要な言葉で書くのが、肝要だ。