Thee Rang 跡地

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論理のおこがましさ

 前に、論理的であることは悪いことかもしれないというエントリーを書いた。最近いくつか藤原正彦氏の本を読み返してみて、色々と考えた事があるのでMEMO的な事などを。
 論理の超エキスパートの氏が考えるに、論理的だということは信用ならないことだという。理由はいくつかあるが、
1、論理にはスタート地点が必要だという事、*1
2、論理は重ねるほどに不正確になるということ、*2
3、論理は人を簡単にだますという事。*3
まったくこう考えたら考えるほど論理という奴がおこがましく思えてくる。
 もう一つ、僕が思う論理のおこがましさがある。論理は時空を超えると思われている点だ。例えば、帝国主義などは今でこそ絶対悪だという認識があるがかつてはむしろ論理的に正しいことだった。未開地の人たちを、先進国である俺様たちが管理してやるのだ、これは正義だ、という風に。これは当時一般的に正当な理論だったわけで、現在の論理で裁こうとするのは無意味だしあまりにも学習していなさすぎる。時空がズレると、論理はとたんに効力を失う場合があるというのを必ず頭に入れておく必要がある。
 こういった理由で、ロジカルに、とか論理的に、というのはおこがましいとさえ感じる事がある。無論、そうでないものは余計に怪しいが。論理的だからいいか、とか論理的だから信用できるか、などという思考は決して持たないようにしているし、自らがそのような無意味な論理をふりかざさないように気をつける必要がある。
 新聞を読んでいたり、人と話をしていたりするとそういう怪しい論理的整合性が大手を振って闊歩している気がする。そんな中で、もっともらしい論理やいやらしい詭弁に揺るがず、しっかりとした価値観とか大局観を打ち立てている人たちに会うと、感動すると同時に尊敬する。あまり表にそういうのは表れないから、僕のイメージでは色々と対話してその人の精神の水面に石をなげいれてみて、その波紋がきれいに広がる人というのが見分け方だ。
 僕の精神にたたえられた水は、清く澄んでいるとは考えてないが、誰かに一滴の水をたらされたときにきれいな波紋を描ける水面であるとうれしいなー。とかいうなんちゃってメタファー。

*1:いかなる論理も出発点とベクトルによって全く逆の結論を構築することができる。

*2:例えば、風が吹いても桶やは儲からない。風が吹いてほこりが舞い上がり、盲目の人が増える確率は0.1%ほどとしても、盲目のひとが弾く三味線の需要が増えるのがさらに数パーセント、その三味線用に猫がたくさん殺されてねずみが増えるというのも数パーセント、ねずみが桶をカジって桶の需要が高まって桶やが儲かるというのが数パーセント。全てを掛け合わせると、ほぼ0パーセントとなる。筋は通っていても、論理は重ねるととたんに信頼性を失う。

*3:帝国主義ファシズムナチスの主張、共産主義なども論理は通っている。それゆえに多くの人を誘惑し、だまし、甚大な被害と怨恨をもたらした。