Thee Rang 跡地

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コンテンツとコンテクスト

 近のニュースを眺めていると、とある閣僚地方自治体の首長に対して不適切な発言をしたカドで袋叩きにあい、結局そのまま辞任してしまうという出来事があったようだ。某首長の部屋を訪れた彼は、まず自分が先に部屋に通され会談まで2分弱待たされたた事に怒り、次に次々と上から目線のお説教ともなんともつかない放言をはなち、極めつけは衆目の中、白昼堂々とマスコミを恫喝するという離れ業をやってのけ、その場を凍りつかせたそうだ。

本当に、政治家というのはあらゆる職業の中でも最も多様性に富む職業のようだ。この知事は、他の首長に対しても挨拶もなしに無言でサッカーボールを県知事の腹に蹴り込んだり、サングラスのまま会見を行った事もある。サラリーマンではまず考えられない行動原理を備えている。

まあ、余談ではあるが彼の出自を見ると社会党という懐かしい名前があってようやく納得したりもする。北朝鮮が夢の国などと堂々と主張し、阪神大震災の折には大ボスの自衛隊嫌いにより多大な被害者をだした、そんな政党出身の彼が、巡り巡って復興担当大臣という重責を担う2011年の現実を目の当たりにして、自由と平等を何より愛する僕でも民主主義に一筋の疑念を覚えざるを得ない。

彼はどう間違っていたか
一言で言えば、コンテンツとコンテクストのアンバランスさ、といえる。

その某大臣、松本龍氏は政治家として実績の無いわけではない。かつて素晴らしい大仕事をした事もあるそうで、今回も復興担当相(この地位もよくわからん地位ではあるが)としてリーダーシップを発揮する事を首相や取り巻きから期待されていたのだろう。なにより、選挙に強く資産家で、サラブレッドのような血統だ。

今回の宮城県知事との対談では、県として首長のリードの元、復興へのプランについてまずは自治体でコンセンサスを取ってアクションプランを策定して国へ要望事項をまとめて欲しいという今後の方針を伝えたようだった。この内容自体、特に問題があるとは思えない。しかし、彼はこれを伝えた事で内外から批判を浴び、ついにはその重責を中途半端な形で放棄せざるを得ない状況となってしまった。なぜならば、コンテクストがあまりにお粗末で、かつ不適切だったからだ。
さんざん報道されている彼の人格や素行云々というのは、復興担当相という責務を遂行するにあたりそれほど重視する要素では無いと思われる。結果さえ出ればヨシとされるのがリーダーだ。

コンテンツとコンテクスト
って何だろう?。一言でいえば、以下のように表せる。

  • 何をつたえるかの内容がコンテンツ。
  • 誰がどういうふうに伝えるか、というのがコンテクスト。

コンテンツは話の内容そのもの、コンテクストは、誰が話しているか、だとか、どういうふうに話を伝えているか、だとかって事。

一般に、コミュニケーションに於いてはアジアではコンテクスト、欧米ではコンテンツが重視されると言われる。これはつまり、アジアでは談合や根回しなど空気を読む力が大事で、欧米では事実に即して客観的に主張する力が大事であるという事だ。

おそらくこの松本氏が伝えようとした内容を、柔ちゃんでも遣ってしゃべらせたなら、同じような内容を喋ったとしてもマスコミの報道は大きく違ったものになっていたであろう。逆に、松本氏が再度宮城に赴いて、今度はものすごく丁寧な姿勢で素晴らしいコンテンツを伝えにいったとしても、やはり叩かれるだろう。
一度伝播したコンテクストを覆すのは並大抵ではない。かつ、コンテクストこそが一般的日本人にとって非有情に重要な判断基準となる事が多い。

コンテクストの選択ミスの原因は個人体験
彼がああいった場でああいったコンテクストを選ぶという事は、すなわち彼の経験や思考を自ずと表す事となっている。立場上、あのコンテクストの取り方がこれまでの彼の人生の中ではベストな選択であり続けたのだろう。金もある、地位もあるとなればやむを得ないといえなくもない。満員電車で、ぶつかってきた人にも反射的にスイマセンと呟いてしまう僕のような小物にとっては、羨ましいほどに清々しい。
きっと、ロジックとスタッツを最重要視する欧米コミュニティの中では、ああいうやり方もアリだったのかもしれない。
しかし、ああいった関係者との連携やマスコミの協力が重要となる職務にあっては、彼の常勝コンテクストの反作用があまりに大きく働き過ぎ、結果彼をも滅ぼした。
教訓:コンテンツとコンテクストのバランス
この二つのバランスの取り方は、とても難しい。世の中には、コンテクストなどどうでもよいのでとりあえず完璧なコンテンツが求められる場面もあるし、コンテンツが適当でもコンテクストさえしっかりできていればイイというような場面も少なからず存在する。
時と場合により、このコンテンツとコンテクストのバランスを取り、自己コントロールする事が、円滑なコミュニケーションに不可欠である、という説を再確認しただけでも、この騒動はひと通り楽しめた。