Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

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日はたっぷり寝た。今日は電車で一時間半もかかるところまで仕事でいかなければならないので、久しぶりに早起きして電車にゆられている。先ほど乗り換えをすましいまは一時間の間座席に座ってゆられることしかできない。外も真っ暗なトンネルで景色も見えず、自然と社内に目がいってしまう。なんと驚くべきことに、みな一様に座って眠っているか静かに目を閉じている。けっして静かな走行というわけでもないので、居心地が悪そうに何度も目をあけては閉じて・・・を繰り返す若い女性もみられる。そして、何より興味深いのは彼らの「座席のとりかた」だ。東京に出てきてからほぼ毎日電車を利用するが、この、人々の座席の取り方というのは非常に興味深いものがある。
あるとき「満員電車で座る方法」とかいう趣旨の本が大ヒットしたとニュースサイトか何かで取り上げられていた。それもそうだろう、電車の中の人々はてんでばらばらなようであって実はあるひとつの「原則」というか、法則に支配されて行動しているかのようにみえる。僕が気づいた点は以下のとおりだ。
・座る人がもっとも好むのは端の席である。
・人の隣に座るのを嫌がる人が多い。
・席が空いていても決して座らない人がいる。
それぞれについては僕もなんとなくわかる部分もある。ただ、なぜ社内が込み合っていて目の前が開いているのにあの人は座ろうとしないのか?や、なぜ駅にとまるたびにわざわざ立ち上がり席を替え、上記の三つの法則どおりに座席を得るひつようがあるのかなど、わからない部分も多い。これも「日本文化」のひとつなのだろうか?
なにかの本かテレビで見た原因として、人々にはそれぞれの「自分空間」というものがあるらしい。そして、その自分空間をなるべく自分ひとりのためにキープしようとする考えが働くことがあるらしい。人によってその空間は違うが、だいたいは両手いっぱい広げたくらいの感じだそうだが、確かにそう考えるとつじつまが合うような気がする。目の前で席があいても座らない人は、座れば自分空間の中に人が入ってきてしまうのだ。端を好んで座る人も同様、そうすれば自分空間のなかに入り込む人が一人は確実に減るわけだ。もっとも、いま現在目の前にすわっている人のようにただてすりにもたれかかって寝たいだけだから端っこを好む・・という人もいるだろうが。笑。その四つとなりに座っている女性などは、じっと姿勢を正したまましずかにうつむいている。やはり、駅にとまるたびにうっすらと目をあけて社内を見回しているようだ。おそらくこれも、目を閉じることで自分空間にはいりこんだ人を黙殺し、自分空間を仮想的にキープしているのだろうか。ただ寝ているだけならごめんなさい。
僕は実は上記三つの法則にほとんどあてはまらない。
あてはまるとすれば目の前の席が空いていても座らない事がある、ということくらいであるがこれは次の駅で降りる事、かつ社内が混み合っていないことという条件が重なることが条件だ。別に自分に人が二人ほど密着していようともあまり気にしたことはない。そんな状況でも自分の好きな本は読めるし、その人は別に僕に関係がないので僕に危害を加えることもないだろうし嫌がらせをするわけでもないだろうとわかっているからである。本を読んでいると、自分とのかかわりの感覚の大部分が本の中に向けられてしまうので、特に自分空間の中に他人がいる状況を不愉快に感じたことはない。もちろん、こういう人は僕だけではないらしく、上記三つの原則をものともせずに本を片手に夢中になっている人もたまに見かける。そういう人たちも僕と同じようなことをたまに考えたりするのだろうか。そもそも僕は、人々が自分空間を気にしすぎるのも自分の楽しみ、自分の法則をつくっていないからじゃないのかと思う。たとえば、僕のように本を楽しむ習慣があれば本がよめる状況でいるかぎり電車の中で自分空間を過度に気にするというようなことはないだろう。携帯ゲームなんかに夢中になっている手合いも同様で、彼らは彼らの楽しみ、彼らの世界に集中しているからあまり周囲がきにならない。ニンテンドーDSが最近手にはいらないほど人気らしいが、いい歳こいて電車の中でゲームかよという人々は、それが気になっている限りそのいい歳こいた人たちよりも電車の中で不愉快な思いをしていることは確かだろう。誰も得をしないが、損をする人はいるという状況だ。同様に、よく聞く話では人間観察が楽しいという人がたまにいる。その人は人間を観察することで自分の世界、自分の時間を構築しているのである。
 他人の時間の使い方を善し悪しなどと判断する権利もなし、それは危険なことだと思うが、静かに黙って寝たふりをするくらいならひとつくらいは自分の世界をもって、時間の有効な使い方を模索してみてはどうだろうか。瞑想趣味があったり、寝不足だけど不眠症だったり、目の見えない人だったり、目を閉じていても楽しめる自分の世界をもっていたり、あまりにも見たくないものが車内にあるとき、などはもちろん例外であるが。。。何にも没入没頭できない、楽しむ習慣がない、受動的にしか興味を受け入れ楽しむことができない、、、たくさんの人がこのような少し寂しい習慣を持っていると感じる。それは興味、知的好奇心の砂漠化といえるんじゃないだろうか?
こうやって、ブログの片隅で文章を書いている人間の端くれとして思った事だが、およそどのような分野においても、僕が考えるにそのような砂漠化された人々の好奇心分野において泉のほとりに緑が佇む森を形成する雨のようなものを人々に満たす事ができるというのが「理想的な創作」という事だろう。例えばの話。こうやってつらつらと日記をかいているってのは創作とはほど遠い!例えば僕の尊敬する現代的なクリエイターはYOSHIKIだったり奥田民生だったり糸井重里だったり松本人志だったり甲本ヒロトだったりするのだがやっぱりハンパじゃ無いクリエイターだ。。。!