Thee Rang 跡地

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雨の靖国神社参拝記

 国神社に初めてに行った。東京に来て一年半だがようやく一つ東京で行くべき所に行ったなーという感じがした。(ちなみに他は築地市場、東京タワー、上野動物園、古書街など)。まず地下鉄半蔵門線九段下を降り、エスカレーターで地上に向かう。初めて間近で皇居を仰ぎ見るも、その重厚さに圧倒される。しばらくテンションが上がってしまってデジカメで御堀の周りをとりまくる。ひとしきり落ち着いた後、北の丸に向かう。田安門の迫力に圧倒されつつも門をくぐると、武道館の威容が目に入る。吉川晃司(一発で変換できないIMEは本当にマヌケだとしか思えない)のライブをやっていたらしく、多くのファンが門前に列をなしグッズを買っていた。折からの雨が次第に強くなり、傘をさしていてもぬれねずみとなってしまう状況だったので、靖国神社へと急ごうと踵を返し皇居を後にする。
 門を出て渋い石畳の小道を歩き、歩道橋を渡り靖国神社の入り口へ。広い道幅とでかい鳥居、深い緑と正面に見える神門が雰囲気満点で、日本近代史に思いを馳せる。後で祖父に見せようと、意気込んで写真を撮るもデジカメの液晶モニタには雨の中で突っ立った自分に、傘に反射したフラッシュがかぶって不気味に光るのがが見えるのみ。九段に祀られた祖父の友人に笑われはしないだろうかと祖父に申し訳ない気持ちになる。
 そしてそのまま拝殿に進み、形式に沿って参拝を済ませる。
 笑顔で拝殿まで歩んできた他の参拝客も、拝殿に上がるや神妙な面持ちになり参拝を済ませている。少し物憂げなのは雨のせいだろうか、特に連れ立って話をするでもなくもと来た道をたどっている。横には生け花がいくつか飾られており、色鮮やかなものからはかなさを感じさせる秋らしい作品まで非常に楽しませてくれた。庇があったので雨にぬれることもなく、一作品ずつよく眺めては、中学校の頃に授業で生け花を習ったがまったくセンスがなくすぐに諦めたことを思い出した。肌寒い日だったが木々の葉はまだ緑の濃く、驟雨にしと濡れた枝葉から雫が落ちるのをみてまたも一層の感慨に浸る。
 僕は振り返って拝殿の写真を一枚撮ったが、これもまたピンボケしてしまった。



 植村眞久海軍大尉は僕と同じくらいの歳で特攻隊に志願し、戦死した。
 深い哀悼の念とともに彼の残した遺書をご紹介。

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。
私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。

素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。

優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。





昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

追伸、

素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。

だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。

神風特攻隊/植村眞久より引用
上記HPより後日談

戦後二十二年

父・眞久が散華してから22年目の昭和42年3月、素子さんは父と同じ立教大学を卒業。4月22日素子さんは靖國の社に鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。舞い終わり友達から花束を受け取った素子さんは、「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったという。