Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

論理的である事は悪い事かもしれない

 もいえる。その逆も、言える。少なくとも、論理的である事が正義で、論理的でない事が悪だというのは間違いだ。このあたりまえの事実に僕はしばらくの間目をつぶっていた。
 社会では論理性が求められる。社会とは個と個と個と、あとはいくつかの体制が寄り添って作り上げられたかのように見えて実は何も作り上げられていない不確定な要素に満ち満ちていて、個はひたすらじっとしているわけにもいかないからとりあえず歩を進めようとする。そのときに出来るだけ信頼できる方位磁針を持ち、なおかつできるだけ遠くまで届く明かりを持った個は他の個よりも生存確率は高まる。ロジックとか論理とかっていうのはこの方位磁針と明かりの役割を果たすもので、論理を絶対正義だと捕らえるのは自らの持つその道具を絶対的に信頼することに相当する。
 さて、強力な方位磁針と明かりを手に持った個は、自信に満ちている。あまり正確でない方位磁針とか、鼻先くらいまでしか照らせないような明かりしか持たない個にとってそれはそれだけで魅力的な存在に映る。たまたま鼻先を掠めたどこぞの個がそれを持つと分かるや否や、その個が稀少で絶対的な真理に見えてしまい、その個の後をうすぐらい明かりで照らしながらぞろぞろとついていくことになるだろう。この現象の連続の色々な次元の集合がいわゆる「社会常識」や「良識」「どうとくのじかん」「芸術」「宗教」「ホロコースト」「テロリズム」というものになる。
 彼ら大多数の個は不安である。いつなんどき目と鼻の先を行く先導個がはぐれてしまうかもわからない。なので、彼らはおぼろげながらも彼らの方位磁針の針を固定し、少しでも手を伸ばして先まで明かりで照らそうとする。こうして彼らの不安は解消される。
 そう、「フレームワークに落とし込む」という表現は勘違いしやすい表現だ。これはもっと正確にいうと「フレームワークに落とし込まれる」だ。この作業は思考の枠を規定してしまう。つまりただでさえあやふやな自らの方位磁針を針金で縛って固定し、手を伸ばしても意味がないのに周囲を明るくしようというだけの行為にすぎない。○○フレームワーク、○○メソッド、○○分析、○○系、チョイ○○、それらはすべてこのような規定された落とし込みの罠と言える。響きがよく突飛な個ほど周囲が受けるインパクトは大きく、またその周囲のインパクトに対して第三者たる個が受けるインパクトはさらに大きいものとなる。
 そういう風にさまよえる個が何週も何周もぐるぐると徘徊しながら、くっついたり離れたりしている。
 だから戦争はなくならない。だから核実験はとめられない。だから裏金は絶やせない。だから密漁はやめられない。
 大切なのは、まず不満に思うことだ。欠乏することだ。そして、他の個のことを考えうらやんだりうらんだりするべきだ。その個のいる所へいきたいと思うことだ。もしくは、その個のいないところへ行きたいと思う事だ。できれば他の個がそのように考える事も考えることだ。正確な方位磁針とか、強力な明かりとかはその後に準備したり他人のものを奪ったりしたらいい。出発点と目的地、そして経過時間を念頭において、ようやく強力な道具が活きてくる。
 そう、そこまでして振り返ればあなたの後ろにはぴったりとくっついた個がうじゃうじゃとついて来るのが見える。