Thee Rang 跡地

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クリエイティブになろう

 ザインを学んでいる友人と飲み、久しぶりに色々と話をした。彼はおそらく今後デザインの道を歩む事になるのだろうが、僕の周りは、高校が進学校だった事もあってサラリーマンや公務員、資格職に就く友人が多く、なかなかこういう才能と技術の世界に入門する人は少ない。毎日スーツにネクタイ、満員電車とサラリーマンライフをこれでもかという位満喫している僕にとって、デザイナーやイラストレーターというのはものすごくクリエイティブな職に見えて、すこし憧れを感じる。昔、絵をかいて褒められる事が多かった記憶がまだ未練たらしく尾を引いているのだろう。
 が、24歳の大の大人同士が一献を交わすとなるとどうしても現実的な話になってくる。彼の口から意外な言葉が出た。
 「デザイナーといっても、好き勝手出来る訳ではない。与えられた条件を満たすもの作るんだ」
 なるほど。商売としてやっていく以上、どのような分野に於いても顧客の存在を無視しては立ちいかない。彼らは金を払っているのだから、自分たちの要求と違うモノを渡されても納得はしないものなのだろう。そういう意味では、雑誌やマスコミに頻繁に露出する、いわゆる「超有名デザイナー」などは、別に新に価値を創造していったり、新分野を切り開いたりといった事に精を出すことよりも、より大きい顧客をたくさん抱え仕事をでっかくしていけた人たちなのだろう。私服姿で悠々と作品を作っていくという僕のイメージは、どうやらただの憧れやごく一部の人たちに限られたものだったようだ。
 しかし、こういう話がある。
 あるアメリカの貴婦人は、アメリカの家で庭の手入れを職人にお願いしていた。その職人は非常に優秀で、あらゆる作業をこちらの支持通りに完璧にこなしてくれた。ある時期、その貴婦人が日本に移住することになった。東京に住居を構え、庭を美しくしようと思い立ち植木職人を呼んだ。彼らに要望を伝えると、それぞれ作業にとりかかってくれるのだが、途中で「この植木はここに植えるよりもあちらのほうがいい」「この置物はないほうがいい」「この空間はこう使うべきだ」などと言って、庭造りはこちらの要望を完全に反映したものではなかった。しかし、できあがってみると驚くほど美しい庭だ。このとき貴婦人は、日本の庭は日本のプロに任せるのが一番だと思い、顧客にただ頭を下げ作業をするだけじゃなく、口答えをしてまで自分の美学を追求して要求を越える満足を与えてくれたことに驚いたという。*1
 このように、与えられた仕事の中にでもクリエイティブになれる場面というのは必ず存在する。それが顧客に想像以上の価値を与えるんなら、プロフェッショナルとしてそれほど嬉しい事もないのだろう。これは、なにもビジネスに限った話ではなく友人関係や恋愛でも大いに活きる心がけだ。どんな分野のどんな作業にも、工夫の余地というのは必ず存在するしそれを追求する事は決して無駄にはならない(押し通すことが良いという訳でもないが)。
 たとえば通勤電車で隣り合った人の服をみて、コーディネートを観察する。
 たとえば傘を忘れてしまった雨の日に、少し立ち止まって雨音を聞いて想像力を刺激する。
 たとえばただのデートにも、相手を驚かす仕込みを必ず一つはこころがける。
 たとえば単調な作業でも、色々なやり方を模索したり傾向を分析してみたりする。
 クリエイティブな感性っていうのは、そういう観察や読書、絵画などからの情報や感動の蓄え、発想を転換する習慣、価値観の崩壊と再構築、志向性などによって培われると僕は考えている。
 冒頭の友人は、長年来のつきあいから必ずその個性とクリエイティビティをビジネスというフィールドで発揮する時が来ると僕は信じている。僕はどうだろうか?クリエイティブに仕事・私生活を過ごしているだろうか。後悔のない仕事・私生活をしているだろうか。
 社会人となって付き合いは増えた。メールのこない日はないし、名刺入れは一杯になった。
 しかし往々にして、旧友から学ぶ事はかくも深く、清々しい。

*1:出展は忘れたが、金田一春彦先生の本か小宮隆太郎氏の本か寺田寅彦氏のエッセイのどれかのような気がする。