Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

褒め上手

 かを褒めるという事は意外と難しい事だったりする。あなたは今日一日誰かを褒めただろうか?また、誰かに褒められただろうか?だいたいの人はいずれも無しと答えるだろう。(その逆は、結構な人が有りと答えるのは想像がつくけども)。褒める、褒められるという経験はありそうでいてなかなか無い。それだけに、その経験は結構な印象となって心に残るし、何かのモチベーションを上げるのに大変役に立ったりする。
 褒める/られるのが難しい理由の一つは、対象に褒めるべき要素が見つける必要があるという事だ。
 何かを見たり感じたり聞いたり食ったり、色々した時に、例えばこのサラダのドレッシングはおいしいとか、大根が辛いだとか、なんとなくきれいだなどの印象を受けるのは誰にでもできる事だ。それこそ、犬猫でも出来る事だ。しかし、人間様たるものそれだけで満足しては何か悲しい感じがする。その印象を自分の中で消化して、自分の価値観や思考とすりあわせて素晴らしいと思えるポイントを発見すれば、褒めるのは非常に簡単な事になる。人間は考える葦ということわざがあるが、刺激の対象に常に考察を与え続ける事が難しいのであり、それを言葉や概念にしたりする事にこそ褒める事の難しさがある。
 もう一つの理由として、褒める為には対象より下から見る視点が必要になるという事がある。
 たとえばある料理を食べた時に、その中のいくつかの素材や味付けが気に入らなかったからといってその店や料理人が下らないと決めつけるのは非常に簡単な事だ。そうすることで、自分がもっと美味しいものを普段から食べているというような感覚になったり、もしくはもっと美味しいものじゃないと自分には釣り合わないという感覚を覚えて悦に入る事が出来るからだ。ストレスが溜まっていたとしたら、それを発散する格好のはけ口にもなるのかもしれない。誰か人物を褒める際にも、仮にその人物の素晴らしい点が見つかって第一の理由をクリアしたとしても、その人物より一時的であれ下から発言するという勇気がないとその人を褒める事はできない。すごいのは分かっているのに褒められないのだから、次第にその感覚は相手への嫉妬になったり環境への不満になったりして昇華されないまま心を腐らせていくことになるという合併症を起こす事もある。特に相手が目下の人間や、自分とはウマが合わない人間だったりしたらそれはなおさらで、会社でいうなれば積極的に人orモノを褒める上司と積極的に人orモノをけなす上司の人望の違いは、だいたいの人に心当たりがある事だろう。
 褒める事は簡単ではない。だからこそ、僕は色々な事を褒めてみようと常々チャンスをうかがっている。それは結構楽しい事だったりするし、実際に僕にメリットをもたらしてくれる事もある。経験上僕は褒める事の効用を知っている、と偉そうに言ってもいい。
 昼飯を食いに行く店でも、料理や店を褒める事で色々といいことがある。学生の頃は常連の弁当屋が本当においしく、その気持ちを、お会計の度にお礼と賛辞の言葉で表していたらまるで実の息子のように色々と心配をしてくれたり話を聞いてくれたりするようになった。そのうちに、店のチラシ作成のバイトを頼まれて結構いい金額の報酬を頂いたり、それ以来弁当代がタダになったりした(信じられないが本当の話で、貧乏学生だった僕には涙が出るほど有り難かった)。さらに最近では、僕がいつも注文するときに前来たときにすごくおいしいと思った事などを言うので顔を覚えてくれて、笑顔で話しかけてくれたり少し量を多くしてくれたり、喫煙者から離してくれたりと色々と便宜を図ってくれるようになった。僕も美味しいと思った事を正直に話しただけだし、メシの前にいい気持ちにさせてくれて一層美味しい料理が味わえるしで、積極的に褒め言葉を口にする事にデメリットなど一切無かった様に思う。その逆もまた然りで、積極的にけなし言葉を口にする事に全くメリットは無いといっても正しい。
 つまりモラルどうこうの問題ではなく、メリット/デメリットで考えても褒めるというのは上策と言える。
 この文章を読んだときに、この三日間で一体何をどれだけ褒めたかを思い出して数えてみてほしい。たくさんあるという人はきっと三日間いい気持ちで過ごせた人だろうし、一つもないと答えた人は悩みがあったり辛いことがあったりした人が多いと思う。精神の安定を保つのは身体の健康を保つ事にも通じるし、他のあらゆる+の事象に通じる事なので、精神安定剤の一環として、人格形成の修行の一環として、部下・後輩の人望を勝ち取る為に、おいしい昼飯の為に、まずは手近なモノ・人をさりげなく褒めてみる所から初めてはいかがだろうか。こんな長文をここまで読むなんて、本当にあなたの忍耐力と視力は素晴らしいのだから。