Thee Rang 跡地

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古めの本

 バンの中から一冊重い本が消えてしまったので、今日の通勤はものさびしかった。家を出る前にあわててカバンにつっこんだのは以前読んだ、樋口一葉の「にごりえ」「たけくらべ」。この人の文体は流麗でいて、身近な色気というか感傷というか、そういうのをうまく拾っていく感じで読んでいて心がどんどんとせわしなってくる。ほとんど読点がない古めかしい文体に慣れていなければ読み進めるのも難しいだろうが、そのうち全く問題なくなる。なくなるどころか、やはり日本的な情緒や感情を味わいたければ、現代口語や現代文語では弱い。これは断言できる。何故断言できるかというと、故・金田一春彦先生が著書「日本語(上)」でそう書かれておられたからだ。助詞の使い方や数がどうたらこうたらと、僕には少々難解な指摘ではあったが先生が仰るのなら間違いない。なぜ森鴎外の文学があそこまで心をかきたてて思考を揺さぶるか?といえば、その完璧に文学的な文法と日本語らしい表現の迫り来るような迫力が圧倒的だから、だ。
 僕の高校の頃の教師で国語に対して非常に厳しい方は、鴎外の文体をひたすら真似した時期があったといっていた。文体を真似するというのは、鴎外っぽく書くという訳ではなく、鴎外の書いたものをそのまま自分で書いてみるといった行為だ。(これは色々な人の文章の書き方を学ぶのに非常に役に立つ。)僕は人間くさいドラマや悲劇は、文語体で読む方が圧倒的に好きだ。
 「にごりえ」は、一人のgeisya(なんで変換で一番最初にこれがでるんやろう?ATOK。)に恋をしたある妻子持ちの男が、入れあげるあまりその女性にいい仲の男が出来たと知るやその女性を殺してしまうなんとも救いようのない物語だが、テンポのよい展開と次々と浮かび上がる様々な人間の思考感情が非常に印象に残る。こういう作品を読むと、先日までよんでいたTHE WORLD IS FLATなど非常にちっぽけなものに思えてきてしまう。全く、小説は卑怯だ。
 一つ言いたい事を言うとすれば、何故、文庫の一ページ目を開いた作品紹介のところに、誰が出てきてだれをどういう理由で殺す、というストーリーを紹介するのだろうか。これは、「いいか、これは文語の作品だ。教科書だよ。だから、ストーリーなんか楽しまなくていい、先に教えてやるから文法とか語彙をたくさん勉強しろよ」と言われているようで気にくわない。たしかに広く知られた名作だが、今からそれを読もうという人にあらすじ紹介と題して本のヤマを書くのは全く粋じゃない。
 一時期、古い本を集めていた時期がある。鶴見祐輔氏の著作に電撃的に出会ったのもそのような時期だった。なぜ古い本を読むかというと、古い本に書かれている事は意外と新しいからだ。たとえば鶴見氏の「北米遊説記」は昭和3年に発行されているが、書かれている事は現代においても非常に先進的で含蓄に富むもので、古今の東西を問わず世界平和のため、日米友好のため、また人生を豊かにするための勉強のため、それぞれに情熱を傾ける人々の姿が描かれている。80年たった今でも、これらは全ての人々に必要なものでありまたそう感じさせられるような格式高い文体だ。かの新渡戸稲造に付随して渡米したこともあり、後に大臣となった彼の慧眼が惜しみなく披瀝されている名作だ。もっと世にでるべきだし、たくさんの人が読むべき図書だ。戦争が始まるだいぶん前(日中戦争が昭和12年勃発)だが、第二次世界大戦についての予言めいた文書、それを回避するための双方の民間レベルでの意識と努力(悲しいかなそれらは徒労であった、がそれでさらに深く文字を拾えるというのがまたアジだ)などがちりばめられており歴史的にも貴重な記述もある。
 古くても新しくても、良い本は良い本だという事だ。新しい物を良い本というのは予測が必要だが、古いものを良いと断定するのは簡単だ。時間が証明してくれているからだ。だから、古い良本を読むことは現在の良本を見つける事、それを掘り下げる事、それによって新しい価値軸を生む事につながる。
 青空文庫に、「北米遊説記」を全部手で書いてアップしてみようかな、、。いい息抜きになるかもしれない。
 ちなみに「にごりえ」は、こちら!是非息抜きにどうぞ。

青空文庫 樋口一葉 にごりえ
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