Thee Rang 跡地

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君は空気が読めないか それとも

 気読めよ、と人は言う。
 空気を読むというのは、だいたいの意味においてその場の人間達の雰囲気に沿った適切な行動をするという事を意味する。だいたい我々は小学校から大学まで公私を通じてこの訓練を積んできたはずだ。暗黙の了解のうちに、だ。
 そもそも、空気を読む読めないという前提それ自体に達する人と達しない人がいる。達しない人は空気を読めと言われてもその言葉が分からないし、自分がその言葉の対象となる事は無いので意に介さない。もしくは、自分がその言葉の対象となっていないというだけで自分は「空気が読める人なんだ」と誤認してしまい、密かな自己完結に陥ってしまっている。その人自身がいてもいなくても関係ない、空気のような存在だと気づかない。
 一方空気を読む読めないという問題の前提に到達する人は、おおよそ何らかの必要に迫られた人達である。これには色々と要因があるが、たとえば自らの役職やキャラによって場の雰囲気を調整したり自分の意見を投げたりしなければいけない人や、趣味的に人間対人間のコミュニケーションを楽しむ人、組織を束ねる必要のある人、どうしても自分の意見や成果を人に見て貰いたい人などだ。
 後者のような人達は、基本的にある目的の中でコミュニケーションをする訳だ。自分の目的を考えることは無論最重要だが、それと同じくらい最重要な事がある。その場の個々の人間の思惑や感情などの流れ、共通認識だ。サッカーに例えるならば、自分の目的がゴールをすることで、いろんな人の思惑、感情の流れが相手ディフェンスのフォーメーションのようなものだ。前者だけを考えていても決してゴールは割れないし、後者だけを考えていても決してゴールは割れない。コミュニケーションを通じて自分の目的を達成しようとする人達は、常にそのどちらをどの割合で思考するかというバランス感覚をとぎすませている。
 そして、このバランスの取り方が空気の読み方に他ならない。
 人間は、余裕が無くなれば無くなる程、目的が困難であれば困難である程このバランス感覚を失いやすく、また失敗しやすい。これを忘れ、ついつい独りよがりな事や場の話題からはずれたこと、場の共通認識にそぐわない事を口にしてしまうと「空気読めよ」と冷ややかに浴びせられる事になる。空気の読めない人の特徴は、どこか必死な部分や焦りや感情のたかぶりがある場合が多い。独りよがりでは場の共通認識をとらえにくく、自分一人浮いた状態で会話をしてしまい、突然にそれを指摘されて気まずくなる。しかもその指摘は正しいので、一層気まずくなる。
 反面、場の共通認識や話題の流れを、自分と自分の目的を含めて一歩引いて俯瞰できる人というのは空気を読むどころか空気を自由自在に操る事ができる。場の共通認識を作り出している人が空気読めなんて言われるはずもなく、いわば他人をして空気読めよと言わしめるのはそういった影の空気の支配者だ。そういった人、人達のさりげない話題のもっていきかた、相手の感情のフォロー、全体の会話のトーンの調整、物理的なポジショニング、立場、時には偶然も手伝って場の空気は作り出されていく。なので、当然その場はそういった人達を優位として進んでいく事となる。
 そう、あるコミュニケーションの場には、「空気の読めない人」と「空気を読める人」がいるのでは、ない。「空気を読めない人」と「空気を読めない人を作り出す人」、がいるだけなのだ。(空気が読めない人という呼び方がそもそもややこしい。太陽の下にものがあるのに影がないような不気味な感覚だ。)
 社会の中で、いや、社会でなくとも学校や家庭の中ですら、空気を読めない人にならないようにしようとするのは目的を達成する上でも他人への印象という意味でも非常に重要な事となる。かといって、見えない空気に怯え空気の奴隷と成り下がるのはコミュニケーションの敗退と言っていい。まず前提としてコミュニケーションに踏み出し、次に「自分の意志・目的」と「その場の共通認識」とのバランスの取り方を練習しよう。というか、していこう。僕には、こういう能力が欠けている上にこういう努力を怠りがちなので。。。*1
 

*1:けど難しい事は、例えばジレンマの一つとして、その場の空気それ自体が「事実」や「論理」「倫理」に反する事だったり自分のポリシーに反する事だったり、はたまた不条理だったりすることは日々あって、そういう空気を吸い込んではき出すくらいならまだ空気が読めないと言われても自分の倫理や論理を通そう、社会的責任を全うしようと考えがちだったりする。これは都会の汚い空気を吸い込んで高級車でドライブするくらいなら、田舎のキレイな空気を吸い込んでチャリでサイクリングをするとういようなレベルの話なんだが、多分そういう感覚を抑えきれないというか捨てきれない、もしくは忘れきれないところが若さというか未熟さという部分なんだろうなー。とある先輩は僕に言った、「制度に反発している内は子ども、制度を利用して美味しい思いをしようとしだしたら大人」、と。僕は大いに反論するところがあるのだが一面の真理を表しているようで歯がゆい。政治も教育も営利企業も、こういう汚さがある種の処世術として必須な事は暗黙の了解でそのルールに従うものだけが生き残れる社会、洋の東西を問わず人間の歴史とはそのような社会の連続だったんだろーなー。