Thee Rang 跡地

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偽物の記憶・本物の記憶

 手の横好きとは良く言ったもので、僕は写真を撮るのが大好きだ。
 旅に出るときは必ずカメラを持っていくし、旅に出ないときもたまに外出にカメラをもっていき、気になった光景をパシャパシャと撮る事がある。大学の頃は、名ばかりとはいえ仮にも写真サークル(というか同好会)にも所属していた。が、どうも才に恵まれないらしく、気に入るほどの出来のものは200枚とってせいぜい一枚あるかどうかといった所で情けないもんだ。世の中には、カメラや構図については素人同然でも、ただのコンパクトカメラで数枚に一枚はうなるような絵を撮る人もいる。なに、隣の芝生は青い物だと諦観するより他にない。
 旅先で写真を撮る人は多くいる。かつて、海外に旅をする日本人は首からカメラをぶらさげていると決まっていると揶揄された時代もあった。現代でもそれは同じで、ただ大きな銀塩一眼レフがコンパクトデジタルカメラになったに過ぎないが、別にそれは日本人に限った事ではなくこの時代に東京に行ってキョロキョロしてみると、外国人の多くも同様カメラを下げたり握ったりしている。おかしいのはそれらがだいたい日本製であると言うことで、かつて欧州を団体で闊歩した出っ歯にメガネの日本人達も、伊達に首からカメラをぶら下げてはいなかったという事だ。
 それはいいとして。
 僕が一人旅を好む理由はいくつかあるが、好きな場所で好きなだけ写真を自由にとれるからというのも理由の一つだ。パッケージ旅行にも無論参加したことがあるが、特に海外ともなると移動や集合などにより時間が相当タイトになる。勢い、決まったコースを決まった速度で歩く事になるが当然そのとき写真を撮るタイミング、場所もだいたいの人は同じになってしまう。ほとんどの人は何か有名な建物や景勝地があって、その前に人が突っ立って、パチリとやってしまうと「ああ写真を撮ったな」と満足げな表情を浮かべる。その意識には、「これで私は確かにここに来たと証明できたのだな」「これでこの景色を忘れる事はないのだな」という考えが去来しているだろう。
 それは間違っている。写真で撮った記憶は偽物の記憶に他ならない。せいぜい、帰ってアルバムに閉じて(もしくはフォルダにぶち込んで、CD、DVDに焼いて)しまうと多くの場合それっきりになり頭から消えていく。あの美しかった朝焼けも、有名な建築物も写真で撮ったからと目に焼き付けるのを怠ってしまい、果てにあの旅はどうだったっけなと見返そうにも他人のような自分が映った写真が手元に数枚あるだけという状況はよくあるパターンだ。
 偽物の記憶に頼りすぎてしまうと、本当の記憶の仕方を忘れてしまう。
 僕は旅先で写真を撮る際、できるだけ「これは日記のお手軽版だ」と考えながらシャッターを押すようにしている。何日目にどう動いたか、どう金をつかったかなどを客観的に把握するのには文字情報もいいが写真などがお手軽でいい。だから、いつも僕の写真は事務的な物になってしまう。仕方ない。僕は決して旅の思い出の為に写真を撮らない。どーせ数百枚のうち見れる写真は(僕のセンスでは)1枚程度なのだから、そんな思い出など残したいとは思わない(センスのある人は別だ。彼らは思い出ではなく芸術作品を産み出しているので、旅の思い出だとか記録だとかそいういうのとは別の次元で写真を撮っている。)シャッターを押しながら、押した後、かならず自分の目、耳、鼻を使いしっかりと生の空気を印象づける。そして、忘れる事を前提に記憶する
 本物の記憶とは、忘れられるという当然の前提無しには成り立たない。度忘れ、再度なにかの拍子に意識の奥底に水紋と共に蘇り広がったときにこそ記憶は本物の記憶として人間に刻み込まれるのではなかっただろうか?写真を撮りまくる事で旅や行事の思い出を記憶しようという意識がある人は、どうかファインダー越しでない生の現場の空気を恐れずに吸い込んで欲しい。



 ・・・というわけで、このタイ旅行でも僕の手元にはたくさんの日記写真が残っている。時間ができればFLICKRにアップロードして、テキトウに言葉などを添えてエントリとして保存してみようと思う。とりあえずどれか使って久々に新しいプロフィール写真でも、作るかー!