Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

やってから考える子

 真をフォトショップなんかでいじるのが趣味で、プロフィール写真やタイトルロゴなんかも自分で作っている。うっすらみえるエントリの背景のタイ文字も自分で書いたものだ(これはイラレだったか)。こういう作業は、うじうじ考えてからやっても仕方が無い。どんどん絵を作りつつ、目を開けたり細めたりしながら善し悪しを判定していく。
 ブログに限らず一般的なWEBでもそうだが、コンテンツを作って見栄えをよくして、それをサーバーにアップロードしてブラウザで表示させるまでの流れは、サイトの完成を十段階としたら3か4くらいに過ぎない。そこで完成したと思っているのはHPビルダーなどを使ってWEBを作っていた5年前のPCユーザーくらいではないだろうか。そこから、ユーザーはどう見るかとかどう振舞うかとかを考慮にいれて徐々に徐々にサイトを構築していくのが一般的な手法だ。
 サイト作りに限らず試行して思考するというプロセスは思いのほか有効なものだ。大成功しようが小成功しようが失敗しようが大失敗しようが、何かを試行して後に思考を与える限りはその結果はあまり意味を持たない。結果を思考して次の試行をより高次元にする事の準備に過ぎないからだ。最近読んだ本で例えるなら、かつてアーネスト・サトウは幕末の混乱期の日本において、攘夷派の侍の凶刃に倒れた外人もその罪を受け自害した侍も、彼らの血は等しく日本の平和と発展のための大地となったのだと喝破した。慧眼といえる。
 まあ、そういう事や。
 他人にそれを許容することもまた器量だ。普通の大人でもそれを分からない人がいるというのが、僕にはあんまり理解できない。理解しなくても良いことなのかもしれない。
 身の回りで試行から思考にいたるプロセスはどれほど思い当たりがあるか?そして思考により試行がためらわれているケースはいかほどのリスクがあるものなのか?その後思考の余地は生じうるかどうか?いくら大人になってもそうやって考えて色々やってみないと、人生おもんないような気がしてきた。