Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

小学生も英語を習え

 いうより、今まで習ってなかったのが不思議でならない。保育園や幼稚園でも習うのに。
  現状の一般的な日本人は、小学校を卒業し中学校に入り、12,13歳の生徒はA,B,C・・・の書き取り練習から始める。しばらくするとThisi is a penなどとお決まりの言葉を習い、教科書に書いてある例文を棒読みで一斉に音読するという不気味な光景が繰り広げられる事になる。僕は漠然とだが何かおかしいなあと思いながら授業をうけていたが、会社に入って英語を実際に使うようになってようやくその理由がわかった。
 よく言われている事ではあるのだが、英語を言語としてではなく暗記科目として教えている、というのがその理由だ。英語ができるのはコミュニケーションが得意なやつでも話好きなやつでもなく、結局古文漢文社会というような暗記科目に強いタイプだった。いま社会人で英語を使って仕事している人は、おそらく大学や会社で新たに英語を学び直し、身につけた人がほとんどではないだろうか。大体の人は、大学受験で培った英語なぞヨーロッパの民族移動レベルの断片的な知識歯科記憶していなかっただろう。
 しかも英語の中学校レベルなぞ、あまりに退屈なレベルの英語しか習わないので、優秀な生徒は上げどまるという現象が発生する。楽勝科目と目され、テストで問題なく点を取れるのでそれ以上学習する事はない。結果、画一的に英語レベルの低い日本人中学・高校生が一括生産される。こういった経緯から、大学入試でも入社試験でも英語はさして要求されないので、公立・私立を問わず日本人なら大抵みられる現象といえる。
 英語の必然性は現状火を見るより明らかといえる。日本人として、また個人的に金田一春彦先生を心より尊敬している僕にとっては悔しい事ではあるのだが、これは時代の流れというものなのでどうしようもない。金融でもITでも日本は海外の技術革新をただ眺め、その余波に抗いきれずにただ身をゆだね、漂流している。得意としていた日本の国技・ものづくりもかつてのように世界はおろか日本国民のハートを掴む事もままならず、今や台湾・韓国・中国の怒涛の勢いに飲み込まれつつある。
 国際社会において、例えばとある産業界のパーティーでも、例えばとある文学賞受賞記念パーティーでも、例えば新聞記者の寄り合いパーティーでも…、そこで話される言語は必ず英語である。断言していい。たとえ中国人であろうがインド人であろうが、彼らは流暢な英語で話題を作る。
 実際僕が出席したある映画監督のパーティーや、有名サイトのオフラインパーティーなどでも全てやりとりは英語で行われた。英語ができない若い学生や日本人会社員はお互いで固まったり、右往左往してあまり楽しめている様子ではなかった。僕も会社に入って英語をやってなかったらああなってたのかなと思うと、勉強しててよかったという気になる。あるパーティーでは、始まる前に近くの階段に座っている参加者がいる。何をしているのかと思ってみると、なんと「英会話学習」なる本を広げて読んでいた。これにはびっくりさせられた。
 中国語やスペイン語は勉強しなくていいのかというと、これは不要といえる。なぜなら彼らは大抵の場合コミュニケーションにあたり充分な英語をしゃべるからだ。タイ人と話すときも、彼らは大抵日本人より英語のレベルは高い。小学校の頃から英語教育をしっかり受けているので、優秀な層はそこである程度英語ができるようになってしまうのだ。
 その昔、夏目漱石は「現代日本の開化」という有名な講演で、「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」と説いた。日本は内部的な必要性よりも外部圧力によって仕方なくその変革を進めていくという論だが、島国なんだから当たり前だろうという批判はあたらない。産業革命を興したイギリスも島国だった。国民性というより他無さそうだが、そうだとするといま漱石が生き返って日比谷あたりで講演会をしますとなっても、我々は同じような話をされて同じように頷いてしまうわけだ。
 僭越ながら稀代の名講演の一部を以下に引用。ぜひ時間の許す限り原文を読んでほしい。

現代日本の開化 -青空文庫-
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759.html


 はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。ことに承(うけたまわ)れば昨日も何か演説会があったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多少は流行過(はやりすぎ)の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。が演説をやる方の身になって見てもそう楽ではありません。
 ことにただいま牧君の紹介で漱石君の演説は迂余曲折(うよきょくせつ)の妙があるとか何とかいう広告めいた賛辞をちょうだいした後に出て同君の吹聴通(ふいちょうどお)りをやろうとするとあたかも迂余曲折の妙を極めるための芸当を御覧に入れるために登壇したようなもので、いやしくもその妙を極めなければ降りることができないような気がして、いやが上にやりにくい羽目に陥(おちい)ってしまう訳であります。

〜中略〜

 ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼をしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思で脱却した旧(ふる)い波の特質やら真相やらも弁(わきま)えるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。食膳に向って皿の数を味い尽すどころか元来どんな御馳走(ごちそう)が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。
 こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草(たばこ)を喫(す)っても碌に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸な国民と云わなければならない。
 開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。
 我々の方が強ければあっちこっちの真似をさせて主客の位地(いち)を易(か)えるのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醗酵して醸された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。
 これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れてみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。
 事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。