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【書評】”数学者紀行”「遙かなるケンブリッジ」(藤原 正彦)

 や『国家の品格』にて誰もが知る事となった藤原正彦氏だが、意外や彼のエッセイについては余り知られていない。1994年に出版された、この『遙かなるケンブリッジ』は、彼の34歳の時の処女作『若き数学者のアメリカ』(これも名作)に続き、数学者である著者が文部省の長期在外研究員として1987年8月より1年間、イギリスのケンブリッジ大学に赴いた際の体験が綴られたエッセイとなる。
藤原正彦氏は、日本の数学者で、お茶の水女子大学の名誉教授だ。なんといってもその血統たるや凄まじい。父親は新田次郎、母親は藤原ていという素晴らしい文人の両親のもとに生まれている。新田次郎氏の『劔岳』は僕の大好きな小説だが、先日浅野忠信氏主演で映画化したことでも注目を集めた。藤原ていの『流れる星は生きている』は、満州から死ぬ思いで日本に引き上げてきた彼女の体験談が、とてもリアルに描写されている名作だ。
そんな藤原正彦氏の本がおもしろくない訳がない。
僕は最初この『遙かなるケンブリッジ』を高校の国語の先生に勧められて読んだのだが、あまりのおもしろさに魅了されてしまった。とてもきれいな日本語で書かれている上に、数学者だからなのか、明快で痛快な書き口なのだ。

機上から見たとおり、イギリスは緑だった。どちらを見ても、畑や緑の草原が、なだらかな起伏をなして限り無く広がっている。山は唯の一つもない。白い羊の群れが見える。農家であろうか、時々石造りの家が、一面の緑の中に、小島のように浮かんでいる。美しい。田園の美しい国はどこか品格がある。そう思った。

これは冒頭の部分だが、後に大ベストセラーとなる『国家の品格』を既に感じさせる内容になっている。そもそも、彼のエッセイや著作の中から、教育や国家に関する部分を抜き出したものが、『国家の品格』であると考えて間違いはない。あの本は、ベストセラーになる前の彼のファンならば誰でも知っているであろう事が書かれているに過ぎない。
アメリカでの長期滞在を経験した彼は、イギリスにてその違いをまざまざと知ることになる。

若い頃アメリカの大学で教えていたから、アメリカ英語には慣れていたが、それとは似ても似つかぬものだった。リンガフォンのイギリス語版や、何度か話したことのあるイギリス人数学者達の英語とも、まるで違っていた。比較的に一様なアメリカ英語とは対照的に、イギリスでは地域、階級により英語が異なる、と聞いていたが、現実の差異は想像以上だった。運転手のひどくギクシャクした英語は、次第に私の頭を雑音のように素通りし始め、異国の地を踏んで高揚していた気持ちを、少しずつ沈ませていった。

こういった英語の違いに始まり、

また、アメリカの大学でなら、教授達の爆笑を呼ぶようなジョークが、ケンブリッジではさして受けなかった。特に私の得意とする少々下品なジョークは、たいていの場合いかなる反応もおこさず、何事も起きなかったかのように無視されるので、時々一人だけ周囲から浮いてしまうことがあった。言葉やジョークだけではない。ハンバーガーはアメリカのものだからjunk food(くずのような食物)である。
〜中略〜
ある日本人の英文学者は、ケンブリッジの英文科教授達が、アメリカ人研究者の著作を全く読んでいないことに、驚いていた。アメリカ的というのは、この国では下等とほぼ同義である。

という、イギリスのアメリカ的なものへの冷たい反応について、驚きとともにおもしろおかしく書いている。
また、彼はイギリス人がフェアであることに大変感心している。自らも武士道について一家言ある人なので、イギリスの地の独特の教育機関や倫理により育まれる「騎士道精神」について、そのフェアーさに着目してページを割いている。イギリス人に「Your are not fair.」と言えば血相を変える、という程絶対的なものなのだと言う。レベルの高い全人教育を施すパブリック・スクールについても解説を加える。僕はあまり知らなかったのだが、イギリスで高等教育を得られるパブリック・スクールはとても効果で、通常のアッパー・ミドルの家庭では、生活を切り詰めるだけ切り詰め、やっと一人いかせられるものという。
今の日本の高校生とは、事情が違いすぎる。
彼の興味は幅広く、イギリス紳士の性欲について、ユーモアについて、習慣について、よくもまあここまでたくさん気づけるもんだというくらいの内容が詰め込まれている。この本はエッセイでもあるし、一流のイギリス読本と言って良いだろう。
山場はやはり、彼の息子がいじめられた下りだろう。自分が子供を持つようになって、尚さらハラハラしながら読めるようになった。
イギリス人の悪所であるレイシズムの餌食になった彼の息子に対し、武士道精神を叩き込まれてきた著者がどのようなアドバイスをするのか。それに対して彼の妻はどう考えるのか。子供はどう行動し、結果どうなるのか。
著者のイギリス観を育んだ様々な経験が、数学の研究という彼の目的に沿って様々に展開され、あるときは笑い、あるときは感心し、あるときはイギリスが嫌いになり、あるときはイギリスが好きになり、ある時は涙が止まらなくなる。読後感はとても温かい気持ちで、さわやかだがどこか寂しい気持ちになる。
中学生から社会人まで、万人におすすめできる一冊だ。