Thee Rang 跡地

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集団希薄化作用

 数決は民主主義的解決方法の一つとされるが、必ずしもそのときどきにベターな解決が出来る訳ではない事はよく知られている。かつてナチスを支持し、ヒトラーを総統にしたのは他ならぬドイツ国民の民意だった。船頭多くして船山へ上るとも言うが、しかしこれだからこうである、とか、いやこうじゃない、こうだからこうだ、…とかっていう意見は、その論理のどこかに仮説や確率が関わってくる以上、確定的な事は何も無いので、「じゃあ皆が納得してるってことで最小公倍数的に正しいんだろうね」、っていう決定の方法が多数決というだけだ。

例えばある議題に対して、一人の参加者が完璧なロジックを構築して、それを裏付けるにたるデータと示唆を明確に示したとしても、他の議員が多数決の時に助けてくれなければ、彼の意見は最終的に「傍論」という事になってしまう。
このブログで以前にも書いた事があるが、真のイノベーションは話し合いや多数決ではなく、一人、もしくはごく少数の個人が革新的で突き抜けた発想・アイデアとともに産み出したものによってもたらされる場合が多い。万有引力の発見や進化論、自転の発見などはその例といえるし、近年のIT業界を眺めてみても、ビル・ゲイツWindowsラリー・ペイジGoogleマーク・ザッカーバーグFacebookなどがある。もっとさかのぼると、イエス・キリストキリスト教ブッダの仏教、ムハンマドイスラム教、いずれも彼ら個人の最高傑作と言えなくもない。

どんなに秀逸で白眉の意見・発見があったとしても、それが集団の中で唱えられたなら、少なからずその集団の合意が形成されるあたりまで希薄・発散させられる。つまり、集団の中の議論では、革新的なアイデアというのは出てこない。皆で合意した最終案、なんてものは大抵の場合その議論が始まる前からある程度想像がつくような物が多く、それに肉付けがどれくらい施されているかという程度の違いにすぎない。たいていつまらない。

この、集団による変異の希薄化という作用は、上記のように結論から革新性、先進性を奪いとってしまうものだが、しかし同時にある種の安全装置としても働く。とてつもなく優秀な意見がでるのと同じような割合で、とてつもなく悪い意見、とてつもなく悪い結論を招く意見というのがあって、それをうまく均(なら)して無難に収めるといった効用も備えている。

(この作用を無効化する(一人に全ての権限を与える、議論とは別に決議人を置く)という事もできるが、それは革新的な意見を拾う可能性が増えると同時に、最悪の結果をもたらす意見も通してしまうという危険性をはらむ。この作用を締めつけ過ぎると安全装置が働く分踏み込みは浅くなり、ゆるめすぎると敵を袈裟懸けに一刀両断できるかもしれないが、その前に自分の首と胴が離れるかもしれない。これってもうほとんど勝負の世界だなあ。)

集団で議論をするときに、僕はたまにこの多数決の希薄化をはがゆくおもう。ここで勝負しようや!駄目だったら土下座でもなんでもすりゃいいやん!って思うこともある。でも、次第次第に、こういう希薄化の作用に慣れつつ大人というものになっていくんだろうか。