Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

内発的ビジョン、外発的ビジョン

 人かの就職活動中の大学生と会話をさせて頂く機会があり、色々と思う事があった。

僕もかつて就職活動に精を出す1学生だった。今は社会人7年目、もはや中堅とも言うべきポジションになり、後輩を何人か抱え、業務に、業務外に、いくらかの責任らしきものを背負って仕事をするようになった。自分では余り意識していなかったが、やはり自分の考え方、物の見方というのはこの6年間で劇的に変わっている様だ。学生たちと会話していると、知らず知らずのうちに遷移していた自分の軸がどういう軌道を描いてきたものだったのかがあぶりだされるように感じる。

当たり前だが学生というのは多くの場合社会を知らないので、社会にどういう人達がいて、どういう力学で動いているのかという点について思いを巡らせることがとても苦手だ。それなのに、就職活動を通して、自己分析やら人生設計やらを学校や先輩に強要され、なにやら全体の一部が肥大化していたり、空洞化していたり、奇形化していたりする様な"あるべき自分"とか、"あるべき社会"が頭の中で出来上がる。会社やOB,OGの体験談に触れながらそれらを是正する事ができる人もいれば、より極端なものを作り上げる人もいる。

社会人というのは、一部の齟齬や矛盾の可能性に敏感なように出来ていて(かつて自分が経た道なのだから当たり前だ)、そういう奇妙な『夢』や『自己実現プラン』、『理想の社会』を語られると、僕なんかはほんのわずかでもおかしい部分に気がいってしまい話に集中できなくなってしまう。

かつて、夏目漱石は『現代日本の開花』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759.html)という演説を行った事があり、その中で『内発的の開花』『外発的の開花』という言葉を用いて持論を展開している。
(この講は、『漱石文明論集』という文庫本に収められている。これは大変な名著で、全体を通して、漱石のキレのある帰納法的視点と演繹法的思考がいかんなく発揮されていて、読むたびに新たな発見がある。つくづく、真の知識人とはすごいもんだ、と彼の慧眼にはただただ驚かされるばかりだ。漱石が今でいうブログやTwitterをやっていたとしたら、どういう事を書くんだろうなー。)


自然と内に醗酵して醸された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れてみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

んで、結構今の時期の学生から聞く話には、当然ながら『外発的』なビジョンが多いのだが、たまーに、仕事や人生について、社会についてここでいう"皮相上滑"ってない、"内発的"な話をする学生とかに遭うと、「おおっ」と感心する。というか、素朴に尊敬の念を抱く。

これはベンチャーを立ち上げる人についても同じで、今まで僕は成功したベンチャー、失敗したベンチャー、どっちでもないベンチャーをいくつか見てきたが、やはり成功しているベンチャーの持つ要素の一つとして、この『内発的』というキーワードはとても重要な事のように思う。

もちろん、起業の場合は学生の就活ほど単純な話ではないけども。

今年の就職活動は、東日本大震災の影響でスケジュールがめちゃくちゃになっていて、例年以上にシビアになるだろうと思われる。しかし学生は逃げるわけにはいかないので、ぜひとも自分の思うような結果が得られるよう、悔いがない就活にして欲しいと心から願う。



ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、 〜後略〜