Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

感想や印象は枯葉のようだ

 の歳になっても、人とのコミュニケーションにはまだまだ難しい事が多いと感じる。その一つに、『フィードバックを得るのはものすごく難しい事』という事実への恐怖感がある。

どういう事かというと、僕の何かの言動で相手が瞬間的、もしくは持続的になんらかの感情を抱いたとする。当然その人との良好な関係を発展・継続させていこうと思ったらどのような感情をどのくらい抱いたかというのをなんとなく推し量る必要があるのだが、これが全く容易ではない。まさか正直に、「今の僕の発言、どうでした?一瞬でもイラっとしましたか?」と問うわけにもいかないし、「挙動不審な所は無かったですか?」なんて尋ねようものなら、それこそ挙動不審者と思われる。
本当に相手の事が知りたければ、相手の表情を注意深く観察するか、帰ってくる言葉でおおよその検討をつけるしかない。

森に喩えると
対人関係もそうだが、おおよそ、個人の受ける感想や印象というのはとても刹那的なもので、その多くがその人によって抱え込まれたまま忘れ去られていく。例えば森を育む土壌には、冬がくると樹木から落ちた枯葉が積もる。そしてじきにその枯葉はバクテリアによって分解され腐葉土となり、また次の季節で樹木を育むための栄養分を蓄える。瞬時の印象っていうのはこの枯葉に相当して、おおまかなイメージとか心象、レッテルとかっていうのがこの腐葉土のような物だ。んで、樹木の高さ・広さっていうのが対象に対する関係性の深さ・広さに相当させて考えることができまいか。

枯葉は放っておいても分解されてしまうが、意図せず妙な分解のされかたをしてしまうと、ものすごくしょぼい樹木になってしまうかもしれない。もしくはひたすら高いけどすぐ折れるくらい細かったり、ものすごく広範囲に葉を広げるけれども地をはうように低く、すぐに踏み潰され葉が落ちてしまうようなものかもしれない。枯葉を落とした人には、枯葉が同分解されどういう栄養を樹木に与えるのか、とても容易に予測がつくものではない。

身近には。
たとえば本を読んだ読み手が、作品や筆者に対してどういう理解の仕方をしたかは筆者や編集者は知る由がない。BlogもTweetも然り。ただ、一度咀嚼し分かりやすくアウトプットしてくれる受けてからのみその鱗片のみ拾い集めることができる。
スポーツのエリート集団の特性
ほかには、例えば意趣は違うように思えるが、実は球技などのスポーツも同様。強いチームというのは、何もそのメンバーが初対面で集まってチームを作ったときから強いのではない。色々な練習や試合の中から、ゲームに勝つという目的のために有用な情報(感想)を抽出して処理し、アウトプットを監督やチームメンバーの皆で共有することで徐々に試合に勝つ必然性を高め、その可能性を上げていく。その繰り返しによってのみ、チームは強くなる。ある程度のレベル以上になれば、いかに個人個人の能力が高かろうが、この情報の汲み取り→共有というプロセスの繰り返しナシに、常勝する事はありえない。漫然と試合をするのか、それとも様々な情報を汲み取る前提を経て、さらに次の情報を汲み取るための目標意識をもって試合に望むか、その態度ひとつで1年後のチームの強さというのは驚くおほど劇的に変わる。成長もすれば、衰退もする。

さっきの森に例えると、枯葉をただ落として土壌が醸成されるがままに樹木を育てるか、目的をもって枯葉を落とし、樹木の育て方を観察してより豊かな土壌を生み出し、よりよい樹木に育てようとするか、という違いといえる。最終的に、勝負どころでよりよい樹木をたくさん育てたチームが、そのときに勝つという単純な話だ。

美しき例外:将棋
例外的に、勝負事でもこの樹木を競争相手同士がお互いに検討しあい、どうすればもっとよい樹木を育てられたかを話し合うという競技もある。それは、将棋(囲碁も)だ。将棋の感想戦といわれるものは、対局が終わったあとに、その対局の様々な局面を並べ直し、どの手にどういう意図があり、どのような改善点があったかというような事を話し合う習慣の事を言う。これは、他のどのスポーツにもみられないものすごく特殊な習慣ではなかろうか。
仮にサッカーでこれをやるとなると、ゲームが終わったあとに監督同士がセンターサークルにやってきて座り込み、最初の陣形を選択した理由から選手交代の意図、指示の出し方などを真面目に検討しあうというような事になる。そうすることで確かに競技としては洗練し、よりマニア好みになかもしれないが、今後また戦うであろう相手とそのような事を話し合うのは、愚かな行為だと見られるだろう。
だが
しかし人間関係においては、感想戦などできようもない。相手の意図はつねに推し量るしかないし、自分の意図は隠すか、それらしく匂わせるか、自分なりにあからさまに態度に表すか、くらいしか伝える手段がない。
いつまでたっても、この塩梅がうまくつかめない、分からない。僕だけじゃなく、みんなきっとそうなのだと思う。お互いよく分からないと思いながら、雨あられのごとく印象や感想を与え続け、抱き続ける。それがまた人間関係の奇妙な所であって、楽しみだ。