Thee Rang 跡地

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才能差別?

 つて、運動会で徒競走をするのに全員横並びで一度にゴールさせる小学校があるという都市伝説が流れた。田舎で暮らす僕は、悪趣味なジョークだとばかり思ったいたのだが、どうやら現実に存在していたらしいということを知った。今もあるのだろうか。あるとしたら子供がとても可哀想だ。

駆けっこが早い子供が幸せで、遅い子供は不幸せなんだろうか。仮にそれが正しいとして、それなら背が高い子供は低い子供に比べて幸せなのか。歌がうまい子供は下手な子供に比べて幸せなのか。家がお金持ちの子供は、貧乏な子に比べて幸せなのか。
んで、不幸せな子供のために駆けっこの優劣を無くしたごとく、身体測定を無くし、健康診断にはみんな同じ身長を書く。歌が下手な子もうまい子も、合唱で同じようにソロを歌わせる。クラスの子供達の家庭の平均年収を調査し、それに満たない家庭には現金を配る。ここまでするならば、その主張の一貫性を認めないでもない。しかし、共産主義社会主義国家でもこのような事はまかり通らないだろう。

才能とは天賦のものだと考える。

そういうと、いや違う、努力と運によって才能は育まれると言う人がいるが、努力するのだって才能が必要だ。世の中にはこの天賦の才能をいろいろな分野で持っている人もいれば、なんの才能が無い人だっている。才能は天賦の物でなく努力の賜物だというのは、世の中のほとんど多数を占める、なんの才能も無い人の慰めなんではないだろうか。

僕は高校の頃、あるスポーツをかなり熱心にやっていたが、才能のある人間にはどうしても叶わなかった。しかし、個人的にはこてんぱんにやられていても、試合では大勝することも多々あった。チームスポーツの面白いところは、凡才の集団でも、ゲームのルールの中で才能に溢れたプレーヤーに勝てるというものだ。

勉強にしたって、東大に楽々入れる様な秀才は周りにたくさんいたが、そういった人達でもどうしても叶わない頭のいいやつというのがたまにいた。あれも、努力でどうこうするといった次元をはるかに超えている様に思う。

才能を見出し、それを伸ばす環境を与えてやるのは周りの大人たちの責任だ。彼等がその責任を放棄して、才能による区別を差別と混同してしまうのは児童虐待にも似ている。

幸いにして才能を見出され、それを伸ばすことに成功した人達をテレビで見るのが大好きだ。プロ野球もプロサッカーも、プロボクシングも囲碁将棋でも、圧倒的才能にまかせて活躍する人達を見ると、大いに胸のすく思いがする。
大した才能を持たない人間の、ささやかな楽しみだ。