その常識の適用範囲
人間は、その置かれている環境の常識を身につけ、それを意識せず思考プロセスに組み込んでしまう。その人の備えるある常識は、その人がその時間に身をおいた環境に依存する事がほとんどで、一時的で非論理的なものといえる。これを認識しないまま、現在身にまとっている常識が普遍的なものであると取り違えると、「常識でしょ?」と思ったことが実は全然常識じゃなくて困ったことになったり、環境が変わって新たな常識を身につける必要が発生したとき、対応できなくて困ったりする事になる。
例1:学生と社会人
◆学生 ←→ 社会人- 時間なんてテキトーでしょ ←→ 時間守らないとかクズ
- 飯?金あるときだけ食えばいいよ ←→ 仕事を休まないために栄養を考えてきちんと摂取
- 腕時計?携帯あるっしょw ←→ 腕時計しない奴は信用ならん
- 原付・単車、便利すぎっしょw ←→ 事故ったときの職場への迷惑を考えて極力控える
- 親?着信あったけどしかとしたw ←→ 親の凄さとありがたみを痛感。
- 大学?バイトに合コンにサークルに… ←→ 大学で遊んでるなんてもったいないやつだ
例2:起業家 ←→ サラリーマン
- やること多すぎて寝る時間も惜しい ←→ 定時で仕事は終わりだー、飲むぞー
- 競合他社の戦略が気になる ←→ 同業自社の社員が気になる
- そんなビジネスあるんだー、チャンスじゃん ←→ 余計な仕事見つけてくるなよっ
- 早く自分いなくても仕事回さないと… ←→ 自分居なくて仕事回ったらクビになる…
- 市場の中で自社の価値ってどれくらいだろう? ←→ 自分の給料って誰々より高いだろうか?
- とりあえず出来ることは何でもやんなきゃ ←→ 自分の仕事の範囲きちっと決めないとな
一般化すると、
・・・みたいな感じで、常識への意識の違いってのはその環境の違いから来るというお話。どこの常識に合いやすいとかっていう個人的特性はもちろんあるだろうが、どの世界でも『常識』にまでなってしまっている概念や行動パターンっていうのは、それなりに洗練された合理性を備えているので、常識を身につけるにはやはりその環境に身を置かないと分からない事がたくさんある。逆に、ある環境に身をおいてしまうと、その環境の常識があまりにも美しくムダがなく整合性がとれていると錯覚し、外部でもその常識の一部、もしくは全部が通用するんじゃないかって勘違いする人もいる。
人はいついかなる時も、あらゆる常識を意識しながら生きる。
日本人としての常識、その県民としての常識、職業の常識、会社の常識、組織の常識、自らの部署の常識、自分と先輩との常識、自分と後輩との常識、そしてお客様の常識、etcetc。
これらが全部違ってて、TPOに応じて使い分けできるのが理想的なのだが、たまにどこか一部をごっちゃにして、例えば自分と先輩との常識をそのままお客様との常識に当てはめてしまって痛い目をみたりする事がある。常識の範囲をきちんと意識して定義するのは、当たり前のことのように思えるがやり始めるととてもきめ細やかに検討をする事が必要で、難しい。
常識を適用する時は、無意識のうちに
- その常識は、正しいか?(環境の中での正当性)
- その常識の適用される場面か?(常識を適用する環境の選択)
の二点を、細心の注意をもって再検討する事がとても大切だ。とか書くと当たり前の事だなあ。