Thee Rang 跡地

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スパゲッティの姿をした創造主

 『空飛ぶスパゲッティ・モンスター教』という宗教をご存知だろうか。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教



空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(そらとぶスパゲッティ・モンスターきょう、英語: Flying Spaghetti Monsterism, FSMism)は、アメリカ合衆国オレゴン州立大学物理学科卒業生のボビー・ヘンダーソンが、インテリジェント・デザイン説を公教育に持ち込むことを批判するため創始したパロディカルト宗教。
教義

  • 宇宙は空飛ぶスパゲッティ・モンスターによって創造された。これは空飛ぶスパゲッティ・モンスターが大酒を飲んだ後の事であった。
  • 最初に創造したものは、山、木々、小人一人だった。
  • すべての証拠が、進化はスパゲッティ・モンスターのヌードル触手によって推進されたことを示している。
  • 古代の人の身長が低いのはスパゲッティ・モンスターの触手によって頭を押さえられていたからであり、現代人の背が高いのは人口増加によりスパゲッティ・モンスターの触手の数が足りなくなったからである。
  • 地球温暖化、大地震、ハリケーンや他の自然災害は1800年代に始まる海賊の数の減少の直接的な結果である(交絡)。
  • ボビー・ヘンダーソンがこの宗教の「預言者」である。
  • 信者は海賊の衣装を着る。海賊はスパゲッティ・モンスター教の教義の中で重要な位置を占めている。
  • 男性の乳首は痕跡器官ではなく、海賊が気温や風向きをはかるのに必要だったから存在する。
  • 彼らが信仰する偉大なるスパゲッティ・モンスター神と同様、スパモン教徒は家族倫理を共有している。
  • 宗教上の祭日は毎週金曜日である。
  • 天国にはストリッパー工場とビール火山が約束されている。また、女性やゲイの信者のための男性ストリッパーも存在している。
  • 地獄はビールの気が抜けていてストリッパーが性病持ちであるという事以外天国と同じである。
  • 祈るとき、「アーメン」の代わりに「ラーメン」と言う。
  • ヌードルはスパゲッティ・モンスター神の触手を象徴する聖なる食物である。
  • 学校教育では進化論のみならずスパゲッティ・モンスター創造説も教えるべきだ。
  • ブッシュ大統領をはじめとする「進化論以外の創造説も学校教育で教えるべきだ」と主張する人々は我々の代弁者だ。
  • あらゆるドグマは拒絶する。
  • スパゲッティ・モンスター神が存在しないという明確な証拠さえ提示されるのであれば、スパゲッティ・モンスター神が存在しないという事さえ否定しない。
  • 教祖や教団にお布施をする代わりに、そのお金は「貧困をなくす」、「病気を治す」、「平和に生きて、燃えるように愛して、電話の通話料を下げる」のに使う。

人類は何によってDesignされたか
この宗教は、ID(人間が何かの知性によって想像されたという考え方)が学校教育へと持ち込まれる事を皮肉って作られたものであるが、しかしこの教えが絶対に間違っているなどとは誰も言い切れない所が大きなポイントだ。ひょっとしたら、マジで僕らはスパゲッティの化物に創造されたかもしれないのだ。ダーウィンやメンデルによって進化や遺伝が研究されるようになってからも、それらだけでは人間の出現を証明するには至らなかった。結局の所、我々人類が歴史を記録しはじめた数千年など地球史はおろか、生物史の中でもほんのごくごく最近の、一瞬の出来事にすぎず、その一瞬の間にこのような問題を真剣に考え、またそれを真剣に茶化すような生物が出現したのは、たとえ彼らが何によってDesignされたとしても、とてもとても素晴らしい事ではないだろうか。
宗教と道徳
『武士道』を記した新渡戸稲造は、アメリカにて日本人の宗教への関心の無さを指摘され、『宗教のない国民が、いかに道徳教育を施すのか』と驚かれた事があったという。アメリカという国では、道徳教育に当然のように宗教を持ちだしており、それがごくあたり前で正しい事だとされる事がある様だ。神は必ず見ているから、悪いことはできない・・・と。
神だろうがそうでなかろうが、大抵の悪いことというのはどこかで誰かに見られているのでこの教え方は間違ってはいない。しかし、こういった宗教のあり方に対して、例えば人類の出現のように、科学の分野と教義が競合してしまうような事が起こりうるとき、大人たちは混乱する。大人たちが混乱するので、当然子供たちも混乱するのだろう。こうした混乱を自分なりに理解するのに、スパゲッティ‥モンスターはひょっとしたら本当に子供たちに教えるための有用性は備えているのかもしれない。
教義と外部ルールの競合
・・・そういえば、先日、女子サッカーの五輪予選で、イランの選手たちが、彼女たちの信じる宗教の教義に沿った服装で試合に臨もうとした所、国歌斉唱が終わってから、その服装の規定違反を指摘され、没収試合となる・・・という出来事があた。この日のために必死のトレーニングを、根気強く、偏見に負けず続けてきた彼女達にとって、あまりにあんまりな仕打ちだと、胸が締め付けられる程痛くなった。選手たちが泣き崩れる写真がとても印象的だった。
しかし、彼女達からすれば、真実の拠り所とする宗教の教義に沿った行動を取った上で、それがサッカーのルールにそぐわない…というのであれば、彼女たちは心からその齟齬を納得し、涙する事など無いようにも思える。「なら仕方がない、我々はサッカーをやめよう」と感じるものではないのだろうか?そのように諦めるには、あまりにも多くのことをサッカーの為に犠牲にしすぎたのかもしれない。
おそらく今後、彼女たちのサッカーの試合の可否について、国際レベルで協議がなされていくのだとは思うが、彼女たちの美しいプレーを世界中の人が見ることができれば、サッカーを愛する人にも、その宗教を誇りに思う人にも、良いことだろう。