Thee Rang 跡地

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正岡子規のやんちゃ魂

 日は子規の野球への情熱をエントリにしたが、きょうはそんな子規のやんちゃな一面について触れた文章を紹介しよう。あえて筆者は伏せるが、興味がある人はこのエントリを読みながら推測してみて、エントリの最後の原文へのリンクをたどって全体を読んでみて欲しい。

豪放磊落な人

正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。〜中略〜 子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。

これあその文章の出だしだが、いきなり食い意地という話題に触れている時点で、子規の人格が見て取れる。

其から大将(※子規の事)は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉れ玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。

傑作なのはこのくだりである。なぜか大将と呼ばれているのもガキ大将の様でおもしろいが、たしかに食い意地を表しているエピソードだ。蒲焼を取り寄せて勝手に食うなど、いくらなんでも自由すぎる。さすがの筆者もこれにはたまげたようだが、このエピソード自体が有名になってしまい、今でもこの部分だけを引用して著者と子規の関係を解説したものがある。

このエピソードはさらにこう続く。

其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金子は当地に於て正に遣い果たし候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。

どうだろうこの豪胆さ。

そして僕が一番気に入ったのは以下のエピソードだ。細かいことにはこだわらない、とことん自分の完成と直感に従う・・・というような大俳人の素の顔が見て取れる。

其時分は冬だった。大将雪隠(※トイレの事)へ這入るのに火鉢を持って這入る。雪隠へ火鉢を持って行ったとて当る事が出来ないじゃないかというと、いや当り前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。それで其火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない。

よき関係
この筆者と子規はとてもいいコンビで、それを楽しそうに述回している筆致が、読んでいてとても心地よい。

以下、大俳人をごまかしと書くことができるのはこの人くらいのものだろう。

あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻りに僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ。

又正岡はそれより前漢詩を遣っていた。それから一六風か何かの書体を書いていた。其頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋(ばつ)を書いてよこした。

この著者が漢詩を得意としていたのは有名な話だが、子規はそれより前に嗜んでいたらしい。この著者の作品に勝手にバツをつけて返信してよこすというのだから、痛快というより他にない。

遠くはなれてしまった友人を懐かしむように振り返る著者の顔がありありと思い浮かぶ。これらの文章は、子規が没して数年後に書かれたものだが、まるで生きている友人について語るかのようで、ユーモアの中にも兄貴分として慕っていた事が伝わってくる。

 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚(とて)も円滑な交際の出来る男ではなかった。

何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった。二人で道を歩いていても、きっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したものだ。尤も僕がぐうたらであって、こちらへ行こうと彼がいうと其通りにして居った為であったろう。
 一時正岡が易を立ててやるといって、これも頼みもしないのに占ってくれた。畳一畳位の長さの巻紙に何か書いて来た。何でも僕は教育家になって何うとかするという事が書いてあって、外に女の事も何か書いてあった。これは冷かしであった。

いいコンビだ。
大学時代からこういう関係を続けたこの二人だが、子規は大俳人となり若くして病に倒れ、この著者は大文学者となった。しかし、どちらも日本の歴史に燦然とその名を刻んだという点では共通している。




原文:http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1751_6496.html