Thee Rang 跡地

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忘却との付き合い方

 物、特に人間に備わっている最も素晴らしい機能の一つに、"忘れる"という機能がある。人間は何かを感じ、覚え、そして忘れるからこそ80年もの長い間生きていく事ができる。

嬉しいこと
何か美味しいものを食べたとする。食べている間、至福の時を味わうとしても、ひとたび食べ終わって水をのみ、横になった瞬間に、その至福の時は過去のものになり、次第に忘れていく。そして、『美味しかった』という記憶のみ頭にとどまり、次にまたその同じものを食べた時、『美味しかった』という記憶をたどるように味覚が味を検知し、ああこんな味だったなあと幸せを感じる。
これがもし、いつまでも味覚を忘れられないとしよう。味覚はいつまでもとどまっているので、もう同じ物を食べる必要がない。きっとすぐに色々なものを食べつくし、食に満足してしまうだろう。つまり、こんな前提では食は発展しない。生物として食に執着が無くなるという事は、つまり滅びるという事と等しい。

また、懐かしいという感覚もなくなる。

この感覚は、外部刺激によって記憶の底面に沈殿した、風化した感覚を呼び起こし、記憶が蘇るに従って、過去の精神的・身体的感覚を仮想的に取り戻す、、、という風に説明できると思うのだが、そうするとやはり懐かしいという感覚も忘れるという作用によって成り立っている。

悲しいこと
今年は、多くの悲しい出来事があり、多くの命が失われた。また、毎年、多くの著名人の訃報を耳にする。人が死ぬ事はこの上なく悲しい事だが、しかし、そこまでの悲しみでさえ、人間はいつしか忘れていく。忘れることで、感情はバランスを取り戻し、また楽しさであったり喜びであったりを感じ取る事ができる。死の悲しみを完全に忘れ去る事はできないが、次第にその悲しみでさえ忘れられ、いずれ懐かしさとして親しみにも似た感情に形を変える。どんなに泣きはらした別れだったとしても、いずれは写真や手紙をみて笑さえ浮かべられるようになる。

あとは失恋もそうだ。
僕は、昔から、失恋して途方にくれている、下手すりゃ自殺すら考えそうな友人がいると、かならず『時間が解決してくれるさ』と声をかける事にしている。聞いている方からすればなにありきたりな事言ってんだと思うのだが、いずれ、このありきたりな言葉が絶対的に正しい事を知る。「あのときはああ言ってくれてありがとう、その通りだった」と礼を言われた事もあった。

忘却と付き合う
うまく忘却と付き合う方法がある。それは、『記録をつける』事である。
旅行中の記憶は、帰宅して半月もすれば日常に塗れあやふやなものになってしまうが、写真をたくさん撮っていると、写真をみながら楽しい思い出を振り返る事ができる。Videoなら、さらに情報量が多い。何気ないメモやレシートでも、後からみればこの上なく大切な思い出の品になるものだ。
別に旅行とも限らない。今今の日常ですら、日記をつけるという行為によって、忘却に消し去られる事なく残しておく事ができる。また、『一日一枚写真を撮っていく』、というシンプルかつ一件無意味な行為ですら、忘却と付き合う最善の方法となりうるのではないか。十年後に振り返ってみればかけがえのない、生きた証といえる宝物になるだろう。


僕はこのBlogをつけていて、ふと過去のエントリを振り返る事がある。

そうすると、自分がその時何を考えていて、どんな状況にいて、どういう悩みがあって、どういう楽しみがあって、、、というのを、ほとんど思い出すことができる。発想が鈍く文章が拙いので他人より多くの時間をこのBlogを書くという作業に費やしていると思うのだが、その分自分の思念の足あとがみにくく残っていて、僕だけがそれを感じ取る事ができる。我ながら忘却とうまく付き合えていると思う。