Thee Rang 跡地

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日本語の書き方何処

 章がこの世に生み出される以上、それは誰かに読まれる前提で書かれなければならない。このブログは最初僕の備忘録や練習帳のような感じで始まったものだったが、それでもいくらかの方が読んでくださっている事を知り、いつか聞いたこの冒頭の一節を時折思い起こすようになった。

自分だけが読むものなら、たとえば単語のつらなりとか、脈絡の無い短文だけであってもなんとか役に立つかもしれない。というかむしろ、文字ですらなくとも、記号の連なりやオリジナルの絵などで充分だ。読み手のことなど自分しか想定しなくていいのだから、誰でもかける。
しかし、もしも、自分以外に、万が一にも読み手が存在する文章であったなら・・・、それは全力で、全気配りを配し、全語彙の中から言葉を拾い集め、慎重に並び替えた上で適切に推敲されたものでなければならない。ならないというか、そうしないでいい理由があまり無い。

そういう思考に至ってからは、読み易さや理解しやすさに重点を置いて文章を書くことの難しさをひたすらに実感し続けた。

思えば、読み手の事を最大限考えた、読みやすい文章、理解しやすい文章をかく訓練など、小学校〜高校〜大学を通じて、ついぞ無かったように思う。

国語の授業では、漢字を習い、読み方を習った。そして小説や論評の一部を読まされては、さまざまな文豪がどういう気持ちで文章を書いたかを、妄想する方法について習った。

が、妄想をさせる文章の書き方というのは、まったく知らなかった。というか教師もそんなもの、てんで知らなかったのだろうと思われる。なぜなら、教師もそのような事を習った事はないからだ。

人生で必要になる国語力
学校で習う国語の内容と、人生で必要になる国語の内容や意味する所は、あまりに乖離が大きすぎやしないか。

手紙やメール、報告書、連絡票、ときにはお祝いの電報やお詫び文章、辞表の書き方、、、およそ人生で国語に触れる時を考えると、何かを読むのと同じくらい、何かを書くことについてもその能力が必要とされる。こういう業務的なものならまだ拙くてもなんとかなるかもしれないが、どんな人間であれ、ほとんどの人は人生を左右するような文章…、例えばラブレター(今ならラブe-mailか?)や就職・転職活動の志望動機欄などなど、そういうものを書かなければならない事態に陥る事がある。

ここで、読み手の思考をまったく想定できないままに文章を書いてしまうと、本当に損をする事になる。好きな人は別のライバルに持っていかれ、希望するキャリアにはそっぽを向かれてしまう。

国語力は過小評価されている。人生をいかようにも転がす力といって過言ではないほど、大切なものだ。

じゃあ書き方を鍛えるには?
そんなものがあれば僕が一番教えて欲しい。いったいどうやったら、読み手の理解を最大限高め、色彩豊かな妄想をかきたてるような文章が書けるのだろう。
かつて、いいと思った人の文章をそのままそっくり書いてみるのはいいトレーニングになると聞いたことがあり実行してみたが、いざやってみるとあまりに文章が美しすぎて目眩がしてきて続かなかった(ちなみに鶴見祐輔という人の文章だった。)。

Missing way of writing Japanese.
多くの日本人は、美しく素晴らしい文章に触れる機会が豊富でやや食傷気味にすらなっているのではないかと思うほどだが、逆に、自分の言葉で、目の覚めるような新たな発見、思わず声が出てしまうくらいの納得感を与えるロジック、天国に昇るような心地よさ、まるでもう一度愛する人がこの世に誕生したかのような感動、人間の原罪の全てを見てしまったような真っ暗な悲しみ…、そういうものを読み手に与えるようなものを書いたことがあるのだろうか?なければ、果たして、書けるのだろうか?

日本語は美しく整った、誇るべき言語だ。もしもひらがなの生まれた平安期からノーベル文学賞があれば、日本人受賞者は数十人は固いのではないかと言われている。だが、鑑賞の仕方は良しとして、その有効な使い方について、もう一度、日本人全員が再考してみてもいいんじゃないかと最近思う。