Thee Rang 跡地

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論考:若気の至りとしての哲学

 学書を読んだことがあるだろうか。巷の哲学入門書とやらを開いてみると、理解する事自体が苦行のような非常に混みいっており曖昧模糊とした主観的な文章に、起承転結も論点整理もなく謎の論理飛躍が延々と続く、読書のおもしろくなさを凝縮したようなものがそこら中に溢れかえっている。
僕は若いころ、この哲学書というもの数冊にハマっていた時期があった。

なにやら難しい事がかいてある。
読んでみると、なんとなく理解できて、なんとなく成る程と思わされる所がある。
多くの訳の分からない説明の中に、たまーにそういうとても面白そうで真理そうなものが目についたりした。あの頃、思春期に様々な思い悩みを抱えた学生が、一種の思考(思想)の拠り所として哲学書を手に取るのは、そう咎められたものではないように思う。

哲学の元来
古代、哲学とは自然科学を含めた学問として扱われていた。おそらく哲学が無いと、今の数学も、天文学も、地学も存在する事ができなかっただろう。今でこそ定理がはっきりとして自明として扱われる事項(例:重力)であっても、当時はその概念すら無かった。そこに、抽象的アプローチとしてまだ無いものを考えるという意味での哲学がもたらした発見は、とてもではないが数えきれるものではないだろう。

そう考えると、現在、哲学を考える事はやはり未来で自明となる、現段階では未発見の事項に近づくためのアプローチとなりうると考えるのは帰納的に考えてとても自然な事だ。見えざるものを見る、語られざるものを考える。そこに哲学の面白みがあり、ダイナミズムがある。

友と語らう
高校の頃は、同じようにいくつか哲学書をかじったような友人とよく議論をしていた。子供はそれまでに自分の頭で考えるという経験がないので、考え方の指針となりうる哲学者の学説というのは判り難いなりに結構刺激的で、大哲学者の研究の集大成を、冗談をまじえつつ卑近な例に置き換えて討論を楽しんでいた。
思春期の友と語らう思春期の自分にとって、哲学は大いに意味のあるものだった。
最近読まねえ
大学3年くらいから、ほぼ一切哲学書を手にする事がなくなった。今も、哲学についての本にはほとんど接する事がなく、先日ふとウィトゲンシュタインの名前をどこかで見て、ふと思いだしたのだった。

おそらく、今は自分なりにサラリーマンとしての哲学、社会人としての哲学というのがあやふやながらも存在していて、それに沿ってうまく生きれているような気がしているから、その他の考え方の拠り所、指針というのは僕にはもう不必要となってしまったのだろう。不必要と言うか、むしろあったら邪魔なもの、とも言えるのかもしれない。

一般的に日本人サラリーマンが、哲学史上の学派の主張の理解や見識を必要とされるシーンは、ほとんど限られる。日常で教養として嗜む場合、真剣に世界の捉え方について再度拠り所を得たい場合、この2パターンくらいのものではないだろうか?もしくは、哲学を織り込んだ冗談などで微妙に知的な滑稽さを演出する時、とか。

若気に至れ
若気の至りのように、哲学者の学説について、放課後延々と討論して、最後はよくわからないね、で終わるなどという行為はサラリーマンにはもはや許されない。しかし、より広い社会を知った頭でその経験を反芻し、考え方のバックグラウンドとして思考のプロットを思い起こすのも、おもしろい試みとなるだろう。

このエントリを読んで少しでも精神がピクって反応した人は、まずはググッて哲学的思考について復習して、一冊本を取って読んでみよう。その本によって、おそらく視力が少し悪くなり、哲学が少し嫌いになり、人生が少し豊かになる・・・と、良いなあ。