Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

マウイ島のおすすめルアウ

 ないだ行ってきたハワイの写真を色々見ていたら、道中特に楽しかったルアウが印象深かったのでご紹介。名前は、"オールド・ラハイナ・ルアウ"(Old Lahaina Luau)という。


オールド・ラハイナ・ルアウについて

  • ルアウとは・・・

=『宴』の意味。一般的には、よくハワイ旅行でイメージするような、晩飯を食いながらフラダンスとかポリネシアンダンスとかのショーをみるっていうシチュエーションに使われる。

  • 場所

マウイ島のラハイナ。マウイ島は、ホノルルのあるオアフ島から、国内線で30分くらい行った島。空港からはレンタカーで移動が基本。ラハイナは、空港からぐるっと南回りで島の西部をほぼ半周した地点にある(北回りはややハードなので注意)。小さいが伝統のある小奇麗な街で、ドライブや歩くだけでも充分楽しい。

  • 料金

大人一人、98ドル+Tax。決して安くはないが、この内容であれば非常にお買い得と断言できる。期間限定で、Webを見て申し込んだ人にはTシャツが一枚もらえるプロモーションもあるので要注意。

  • 内容

夕暮れちょい前くらいから入場でき、海岸を散策しながらショーを待つ。ショーの前に、地中でティーという葉っぱで包んだ豚の蒸し焼きを掘り起こす、『イム・セレモニー』という儀式をみることができる。掘り起こした瞬間は観客から歓声が上がり、なんとも言えないとてもよい香りが漂う。
ショーはものすごくムードがあり、しかも本格的。古代のフランダンスから現代のフラダンスまで、ストーリー仕立てで楽しめる。観客が参加して海辺でダンスをする時間とかもあったりして、カップルはものすごく楽しめる。音楽もダンスも証明もムード満点。
料理はブッフェ形式で、焼きたての豚をはじめ各種フルーツなども取り放題、ドリンクも飲み放題。カクテルは得も言われぬ美味で是非一杯は飲んでおきたいところ。

  • 予約方法

人気なので、予約無しにはほぼ無理。(地球の歩き方とかには乗ってないが、アメリカ人に大人気らしく僕がいった時も大量の新婚旅行カップルがいた。日本人は僕の他に2組程だった。)予約方法は、公式サイトの以下のURLからONLINEで予約するか、もしくは"800-248-5828"にコール(日本でSkype使用だと、+1を頭につける)して直接会話するのが一番早い。日本の午前中ならあちらは昼〜夕方なので、普通に応対してくれる。
日程と人数、滞在しているホテル、座る席を座敷(Traditional)にするかテーブルにするか、を告げればそれで終了。支払いも、クレジットカードナンバーを伝えれば終了。予約完了したら、Confirmationメールが届くので、それを見て内容確認。届かなかったり、違ってたりしたらもっかい電話で伝えればOK。

Reservation:http://www.oldlahainaluau.com/verisign/buy.html

  • 感想

ハワイの人気No.1ルアウとの呼び声高し、との期待を裏切らない内容。円高なので98ドルは8000円程になる。日本の居酒屋+二次会で消える額なので、そう考えると普通に安いとも言える。Tシャツもらえるし。
料理はまあまあウマイくらいだが、ハワイの中ではうまかった方かも。カクテルはめちゃ旨かった。カフルイや島南部からもすぐにいける距離にあり、周辺の街も素晴らしい。会場は静かな海辺で散策や写真撮影に調度良い。ショーは素晴らしいの一言、ダンサーの人達も皆笑顔でホスピタリティ溢れる踊りだった。
スタッフの対応も非常に良いのだが、とても忙しそうにしており捕まえにくいのが難点。用事があるときは無理矢理捕まえに行って話をしなければならない。僕は座敷を選択してかなり間近で見たのだが、机や周りはかなり清潔。座敷は人によっては狭いかもしれないので、よりは机のほうがゆったりと鑑賞する事ができる。新婚や記念日旅行のカップルが多く、テーブルも和気藹々としていた。また、全部で客は200人くらいはいたと思うのだが、日本人は僕ら家族を除いて2組程だった。地球の歩き方などガイドブックでは紹介されてないという事もあり、日本人が少ないのも旅情をかきたてて良い所だった。入り口を入って出るまで、終始スタッフの対応は素晴らしく、大変良い思い出になった。是非また再訪したい。


Photoなど


ドライブルートにはホエールウォッチングポイントも。

ビーチパークに立ち寄って休憩。山側はダイナミックな景観。

何気ないビーチパークでもこんだけ綺麗。

入り口にて入場を待つ人々。手にはウェルカムカクテルが。

レイ(花の輪っか)ももらえる。

中では豚が蒸し焼きにされている。神聖な儀式らしい。

海辺を散策しながらショーを待つ。夕暮れ。

ぼちぼちショーが始まる。

ステージはこんな感じ。

向かいの席に座ってた結婚記念日にロスから来た美男美女夫婦。

日も暮れて、腹も減って。

ダンサーは本格派。色々なメンバーが、色々な衣装で色々なダンスを見せてくれる。ハワイのフラの歴史をなぞるように場面が変わっていき、劇を見ているような感じ。

横の席のドイツ人親子。このイケメン君は爽やかな奴だった。

さあ、ホテル帰ろう。楽しかった。

ショート・ショートはどんだけショートか

 新一という偉大な作家がいる。ショートショートの神様と言われ、未だに多くの人々が彼の新しいファンとなっている。寓話的、かつ普遍的であり、ただ読んでいて面白いというだけでなく、社会風刺や、人間の業への皮肉のようなエッセンスも兼ね備えた、するどいと形容されるような作品も数多い。
 …というのは前置きとして、この『ショートショート』というジャンル、僕はイマイチ定義がよく分からなかったのだが、Wikipediaで読んでみてなんとなーく分かった気がした。
"雑誌『小説現代』のコンテストでは400字詰め原稿用紙7枚まで、雑誌『SFマガジン』の読者投稿コーナーでは400字詰め原稿用紙5枚程度"
とあるので、これは思った以上に短い。小学生の作文でも原稿用紙2,3枚はすぐに到達する。思った以上に、構成力と表現力が問われるものらしい。
まあしかし日本が誇る世界最短?の文学、『俳句』はたった17文字だし、それにさらにドラマ性や言葉遊びなどの趣向を加える事を可能とした『短歌』だって、ほんの31文字…という事を考えれば、このショートショートもまあそんなもんかな、と思わないでもない。英語と違って文字に意味を込めることができる日本語(や中国語)は、短い文章で多くの事を語るのに向いている言語だ。これは、Twitterなどでもわりとはっきり見て取れる。

例えば僕のエントリは
過去のエントリを見てみよう。例えば、最近書いた『ペットボトルでお茶飲もう』というエントリは1651文字、『セレンディピティな経験を』は1597字、『戦争がなくなる日』は、2229文字。こうして見ると、原稿用紙は4〜6枚分くらいの量を1エントリあたり書いている事になり、すでにショートショートの文字数制限に近い、もしくは超えるものになってしまう。ショートショートならセリフなどもある程度は入るだろうから、実質的に使える文字数はもっと少ないものと考えられる。
星新一は、1,001話以上のショートショートを残したというが、僕もこのブログを全部ショートショートにして、かつ三年くらい続けたら、文字数だけで言えばそれくらいの本数を書くことができるらしい(もちろん品質は比ぶべくもなし)。
読んでみよう
ショートショート風呂』というサイトからの引用。

ファイヤーバード | http://cab10.seesaa.net/article/44344163.html

老作家 | http://cab10.seesaa.net/article/120016887.html

と、こんな感じで、短い文章なのに深い味わい?があり、時には読者を欺くようなセンスが必要になるものだ。ある種ギャグマンガのようなものだが、そのぶん気軽に読めて面白い。

書いてみよう
しかし書くとなるとこれは相当難しい。ブログのように好きな事を好きな様に書いていてはダメで、読んでいる人が求めているエンターテイメント性をきっちり備えていないといけない、という事になる。まるで、中学生が教室の前に呼ばれ、教師から『いまからこの黒板に、クラスの皆が笑えるような絵を書きなさい』と言ってるようなもんで、掴みどころがなさ過ぎで困る。こんなのをどんどん産み出していくには、鋭い観察眼をもって日常のいろんな事象からメタ的な解釈を生み出して、思考実験を繰り返す必要があるだろう。氷山は、海上に出ているのはほんの数%の部分だけだというが、きっとショートショートも、文字となって現れるものは、その作品を書くのに必要とした思考のほんの数%に過ぎないのだろう。

とても簡単そうに見えるが、おそらく書いてみるとものすごく難しい。…がしかし、原稿用紙5枚分というのはすなわち2000字程度で、これはTwitterのつぶやきの15倍ほどでしかない。つまり、一日に15回以上つぶやく人は、その文字量でショートショートが書けてしまうといえる。
Twitterで物足りないと感じてる人には、ぜひぜひ挑戦してみてほしいなー…。

芸術、ときどきパトロン

 術にパトロンあり。

パトロンは, ラテン語の「父 (パテル: Pater) 」から派生したラテン語の「私的庇護者 (パトロヌス; Patronus) に由来する.

秀吉の入れ込みで千利休が茶道を大成させたり、シュラッテンバッハ伯爵の寵愛により天才・モーツァルトがその才を存分に発揮し大音楽家となったり、フランス王朝がレオナルド・ダビンチを寵愛したり、日本の梨園角界でもやはり優秀な人材は目をかけられて出世したり、こんなものは例をあげていくと枚挙に暇がない。

芸術というバグ
そもそも人間は、感動したからと言って飯は食えない。この世のものとは思えない美しい音楽や絵の、無限にも感じられる創造性と卓越したアイデアは言葉を失うほど魅力的で衝撃的なものだが、それで腹がふくれるかというとそうでもない。動物界に芸術という概念が存在しない様に、この芸術を創造する、理解する、という点は人間の高尚な感情にのみ存在する、哺乳類の脳に発生したバグのようなものと言っていい。

つまり、生物が生物として生きる(=安全な場所に居住し、安定した食料供給を得る)という自然の摂理に背く行為が芸術の創出活動であり、これを熱心に行う芸術かであればあるほど、自己が生物としての義務を果たさず芸術を創出する代わりに、生物としての義務を代わりに果たしてもらう存在が必要となる。それが、パトロンとなる。

持ってないものを、欲しがるもの。
んでパトロンはどういう利益があるのかといえば、これは芸術家とは反対に、生物として生きる事については文句のつけようのないほど成功している人が多い。王様であったり大富豪であったり、大物政治家であったり超有名人であったり。しかし彼らは、生物としての義務は十二分に全うしてしまったため、今度は義務の外にある、自分の到底手に入らないような価値を追求したがるものだ。
自分はでかい家もある、うまい飯も食える。ただし、きれいな絵がかけない、うまく楽器が奏でられない。いくら金をつんでもこればかりは買う事ができず、こういった芸術を自分のものにしたければ、自分の分身を作ってその道を極めてもらえばいい。・・・とまあ、こういう欲求が少なからずあるものなのでは無いだろうか。

この考え方の根底にあるのは、芸術そのものへの所有欲と見立ててはどうか。芸術家でなく、芸術。自分が芸術を生み出せないのなら、自分の手元に芸術を置いておくには、芸術家をおいておくしか無い。自律できない芸術を所有する事で、生物としての存在価値に加えさらなる付加価値を自己の人生に意味付けようとしているのだ。

パトロンのない芸術家
芸術を志す人は多い。しかし、成功するのはサラリーマンに比べ、ほん〜〜〜の僅かの一握りという世界だ。ゴッホという天才ですら、本人は自身の成功を知る由もなく他界してしまったので、いくら有名になろうが絵が高値で売れようが、本人にとって関係のない出来事だった。

運がよければ、成功しなくともパトロンがつき食うのに困らない、、、ひょっとしたら人より豪華な暮らし、、、が出来る事もあるのかもしれないが、そんな事を期待するのは宝くじを期待するのに似ている。
ほとんどの芸術家は、生物としての摂理に反する行動に命をかけて取り組みながらも、やはり生物としての摂理にある程度したがって、食っていくだけの収入は別で確保しながら生きているというケースが殆んどだろう。そういう行為を高尚というのかどうかは、僕は知らない。しかし、彼らが追い求めるものに確かに人間の幸せが宿るのならば、彼らがそれを行う事で人類の生活が豊かになると思われる。

・・・僕ももしもいつか芸術を志すような事になったときは、心強いパトロンがいてくれると、とってもありがたいのだが・・・・。


旅行にいっておもしろい手記でも頑張って書いてみるので、パトロン急募。

日本語の書き方何処

 章がこの世に生み出される以上、それは誰かに読まれる前提で書かれなければならない。このブログは最初僕の備忘録や練習帳のような感じで始まったものだったが、それでもいくらかの方が読んでくださっている事を知り、いつか聞いたこの冒頭の一節を時折思い起こすようになった。

自分だけが読むものなら、たとえば単語のつらなりとか、脈絡の無い短文だけであってもなんとか役に立つかもしれない。というかむしろ、文字ですらなくとも、記号の連なりやオリジナルの絵などで充分だ。読み手のことなど自分しか想定しなくていいのだから、誰でもかける。
しかし、もしも、自分以外に、万が一にも読み手が存在する文章であったなら・・・、それは全力で、全気配りを配し、全語彙の中から言葉を拾い集め、慎重に並び替えた上で適切に推敲されたものでなければならない。ならないというか、そうしないでいい理由があまり無い。

そういう思考に至ってからは、読み易さや理解しやすさに重点を置いて文章を書くことの難しさをひたすらに実感し続けた。

思えば、読み手の事を最大限考えた、読みやすい文章、理解しやすい文章をかく訓練など、小学校〜高校〜大学を通じて、ついぞ無かったように思う。

国語の授業では、漢字を習い、読み方を習った。そして小説や論評の一部を読まされては、さまざまな文豪がどういう気持ちで文章を書いたかを、妄想する方法について習った。

が、妄想をさせる文章の書き方というのは、まったく知らなかった。というか教師もそんなもの、てんで知らなかったのだろうと思われる。なぜなら、教師もそのような事を習った事はないからだ。

人生で必要になる国語力
学校で習う国語の内容と、人生で必要になる国語の内容や意味する所は、あまりに乖離が大きすぎやしないか。

手紙やメール、報告書、連絡票、ときにはお祝いの電報やお詫び文章、辞表の書き方、、、およそ人生で国語に触れる時を考えると、何かを読むのと同じくらい、何かを書くことについてもその能力が必要とされる。こういう業務的なものならまだ拙くてもなんとかなるかもしれないが、どんな人間であれ、ほとんどの人は人生を左右するような文章…、例えばラブレター(今ならラブe-mailか?)や就職・転職活動の志望動機欄などなど、そういうものを書かなければならない事態に陥る事がある。

ここで、読み手の思考をまったく想定できないままに文章を書いてしまうと、本当に損をする事になる。好きな人は別のライバルに持っていかれ、希望するキャリアにはそっぽを向かれてしまう。

国語力は過小評価されている。人生をいかようにも転がす力といって過言ではないほど、大切なものだ。

じゃあ書き方を鍛えるには?
そんなものがあれば僕が一番教えて欲しい。いったいどうやったら、読み手の理解を最大限高め、色彩豊かな妄想をかきたてるような文章が書けるのだろう。
かつて、いいと思った人の文章をそのままそっくり書いてみるのはいいトレーニングになると聞いたことがあり実行してみたが、いざやってみるとあまりに文章が美しすぎて目眩がしてきて続かなかった(ちなみに鶴見祐輔という人の文章だった。)。

Missing way of writing Japanese.
多くの日本人は、美しく素晴らしい文章に触れる機会が豊富でやや食傷気味にすらなっているのではないかと思うほどだが、逆に、自分の言葉で、目の覚めるような新たな発見、思わず声が出てしまうくらいの納得感を与えるロジック、天国に昇るような心地よさ、まるでもう一度愛する人がこの世に誕生したかのような感動、人間の原罪の全てを見てしまったような真っ暗な悲しみ…、そういうものを読み手に与えるようなものを書いたことがあるのだろうか?なければ、果たして、書けるのだろうか?

日本語は美しく整った、誇るべき言語だ。もしもひらがなの生まれた平安期からノーベル文学賞があれば、日本人受賞者は数十人は固いのではないかと言われている。だが、鑑賞の仕方は良しとして、その有効な使い方について、もう一度、日本人全員が再考してみてもいいんじゃないかと最近思う。

なべつかみ便利すぎる

 い先日、100円ショップで鍋つかみを買った。おそらく僕の人生の中で、自分の金で鍋つかみをかった初めての体験だったが、これが驚くほど便利だったので、驚きと共に書きつけておく。

鍋つかみという名称
からして、これは熱くて持てなくなった鍋をもつための布手袋、、、としか捉えてなかったのが了見の狭いところだった。家で中華鍋なんか扱わないし、大量のスープやシチューを作ったりもしないし、あっつあつの鍋つかむシーンなんかネーヨと考えていたのだが、これが大間違い。

鍋つかみは、鍋をつかむためのものではなかった。

じゃあ何つかみ?
僕の場合、鍋つかみで掴んでいるものは、食器とヤカン。ほぼこれだけ。

冷凍したご飯やおかずを電子レンジにかけると、程良く温まるまではいいのだが、取り出すときに水分がめちゃアツくなって、食器が持てない!っていう不愉快な体験は、誰でも身に覚えがあるハズだ。食事があんなに劇的にあたたまるのだから、食器が温まるのなんて考えてみたら当たり前なのだが、ともかく取り出すときに苦労する。

こういうとき、鍋つかみがあれば何の苦労もない。ストレスゼロで、あっちあちの食器を電子レンジからぐいっととりだして、サランラップを外してすぐ食べ始める事ができる。鍋つかみはたいて大きいので、ある程度大きい食器でも全く問題ない。片手だけでくいっと持って、すぐテーブルへ。快適だ。

あと、ヤカンは、インスタントラーメンやお茶を作るときに、水を沸かした後にすぐヤカンからお湯を注ぐときに使う。これも、お湯を沸かした後は、ヤカンの持ち手のプラスチックの部分が想定外に熱いことがあり、なかなか持つことができずイライラするという問題を見事に解消してくれる。沸かしたらさっと火を消して、ひょいとヤカンを取り上げてラーメンだかコーヒーだかにお湯を注げば良いだけだ。

さらに、鍋つかみはある程度の重さがあるので、カップラーメンの蓋の重しとしても圧倒的な機能性を発揮する。箸2本では水蒸気が逃げてしまう、かといってお皿を新しく出すほどのものでもないし・・・とお悩みだったあなた、そういうときは蓋をしめてそっと鍋つかみを置けばいい。柔らかいので蓋の周囲にマッチしてしっかり押さえ込み、水蒸気の拡散が起こらない。

持ってない人は即買うべし
他にも、保温をきったばかりの電子ジャーの釜とか、オーブンで焼いたグラタンを持つときとか、火にかけた鍋をもつときとか、グリルでがっつり焼きもん作ったときとか…、いろいろなシーンで活躍する。

もしまだ鍋つかみを持ってない人は、自炊するしないに関わらず必ず役立つので、すぐに100円ショップに走って行って、鍋つかみをかうべきだ。僕はこれを声高に主張したい。

優柔不断の免罪符

 柔不断、とは何時の世も男に投げかけられる、わりと最大級の侮蔑であったりする。男なら、スパッと決めて、潔く責任を持つべしといったような考え方に由来するのだろうが、そんなことを言われても分からんもんは分からんし、決められんもんは決められん。
字面を見ても、優(すぐれる)柔(柔軟性)とあるのをスルーして、"不断"の部分ばかりスコープされても困る。柔不断、ならなんとなくなよっとした感じでイケてないなぁと思うんだが、"優(すぐれる)"なので、結構イケてるやんかと思ったりする。

ボーダーラインの引き方
何か判断を下すときに、常に100%判断に必要な情報が揃うわけではない。というかむしろ、不確定要素が大半を占める状態で、その不確定要素にさらに自らの推測を重ねて何かを決断しないといけないという事が殆どで、困ったことに、それに対して責任を追う事になるのが世の常だ。別に自分のせいでなくとも、その不確定要素に何か一つ例外が混じっていてその例外のせいで失敗したとしても、決断した自分の責任という事になる。

ここで、人によって、どこで決断へ至るボーダーラインを引くかが大きく異なる。慎重な性格で、限りなく100%まで事実を確認していってようやく決断を下すという人もいれば、まだ10%ほどしかはっきりしたことがわかってないけど、とりあえずカンと勢いで決めちまう!っていう人もいる。どっちが優れているとか劣っているとかでは無く、そういうタイプの人間はそれぞれ必ず存在する、というだけの話だ。

それはいい。ボーダーラインの引き方に個人差があるのは当たり前だ。

ただし、場合によってはボーダーラインの引き方に、無言/有言の要求が入る事があって、それを把握できずにボーダーラインの引き方を失敗してしまい、場の不興を買うような事が稀にある。こういうときは、自分がどういう特性を持っているかはとりあえず置いておいて、そのばで求められているボーダーラインの位置を大まかに察知して、それに見合った判断材料の検討及び決断というのが重要になる。

意外とできない、"決めの問題"
Aでもいい、しかしBでもいい。どっちかにしなければならない。こういう場合、その決定に関わるものの義務として、決定者に対してどちらにすればいいかという示唆を与えるという事がある。どちらでもいいから、あなたの好きに決めてください、では話にならない。AもBもいいと思うが、こういう理由からBにすべきだ、というようなものが決断に役立つ情報であり、価値のある情報といえる。

こういった示唆なしに、決めの問題を決める事というのは意外と難しく、じゃんけんやアミダくじが許されない状況では人々を混乱に陥れる事すらままある。

決めの問題だからこそ、正常で多様な示唆が必要となるのだ。

示唆を出せ示唆を
決断を戸惑うことがあるのは、これはもう仕方がない。例えば、買い物デート中の男性が女性のストールを選ぶときに、A柄とB柄があり、「あなたの好きな方を買うから、どっちがいいか決めて」と訊かれて決めかねるのは当然だ。こんな決断など無責任でとてもできない、と思い悩む人もいるかもしれない。

こういう時に必要なのが上記の示唆だ。B柄は以前もっていたものと似ているからA柄にしたほうがコーディネートの幅が広がる〜だとか、個人的には駅でよくB柄をみかけるから、君にはA柄を着てみて欲しい〜とか、そいういうようななんでもいいから示唆を出せるかどうかで、同じ優柔不断でも受け取る印象は変わったものになる

優柔不断の謗りを免れるためにも、示唆は有効な武器となる。デートでも仕事でも、覚えておくと得をする事もある…かもしれない。

ペットボトルでお茶飲もう

 校のころのある友人は、ある日スーパーでペットボトル入りのお茶を買っているとき、『お茶なんて買うものじゃない!家でお母さんに作ってもらいなさい』と、見知らぬおじさんに怒られたことがあると言っていた。今でこそお茶を自販機で買うのなんて当たり前になってしまったが、ちょっと前の田舎の人の肌感覚としては、このおじさんのような感じが今でも残っているものと思う。お茶なんて、外でわざわざプラスチックの容器に入っているものを買うものではない。家で、急須から湯飲みにいれて啜る物だ、というものだろう。
このBlogの読者の人にもまだこういう感覚が強く残っている人もいるだろうし、むしろこういう感覚しか無いという人がいても不思議ではない。なぜなら、僕も少なからずこういう感覚を捨て切れていないから、だ。現にその友人も、特に言い返す言葉が無かったといって苦笑いしていた。

ペットボトル入りのお茶
1990年、伊藤園が『お〜いお茶』をペットボトルにつめて販売した。このころから日本国民に『外で買い、歩きながら緑茶を飲む』という認識/習慣が浸透し始め、2000年の『生茶』、2004年の『伊右衛門』などの誕生により完全に根付いた格好となり、巨大なフォロワーを次々と産み出していった。
当初は清涼飲料水のたった0.5%のシェアだったというが、2001年には烏龍茶を抜き去り、今や市場規模4500億円の大規模市場となってしまった。
伊藤園の慧眼
この現象は、ほぼ伊藤園のシナリオ通りといって問題ない。伊藤園は、お茶がどれだけ家庭で飲まれているが、家庭外で飲まれているかを算出し、また、コーヒーや紅茶などについても同じように調査を行った。結果として、緑茶が缶コーヒーのように外で飲めるようになれば、巨大な市場になるだろうと予測し、そのとおりになるよう業界をリードし続けてきた。類稀な慧眼といって良いように思われる。
コーヒーは嗜好性が強く、烏龍茶は止渇性が強いという観点から、その中間にある緑茶の可能性に目をつけたというが、これも素晴らしい。確かに、喉が渇いたからといって缶コーヒーを買う人はそういない。同じように、味をゆっくり楽しみ、落ち着きたいからといって、烏龍茶を手に取る人もそういないだろう。しかし、このそれぞれの目的をもった人が、緑茶のペットボトルを手に取る事は自然な事といえる。
僕自身の体験としても、止渇性と嗜好性、この2つが重要になる大学の講義などでは、たいてい緑茶携えて勉強していたように思う。
もう一つの可能性
この緑茶のペットボトル化、僕が素晴らしいとおもう波及効果の一つに、『海外での緑茶の認知度向上』がある。
タイに訪れたことがある人はよく知っていると思うのだが、コンビニやスーパーには日本チックなイラストが書かれた緑茶が大量に陳列されていて(ちなみにトップメーカーの名前は"Oishi"という)、庶民に愛される飲料となった。味は加糖されたりしていて少し違う部分もあるのだが、加糖されていないものを好む人も多い。タイだけでなく、アメリカでもペットボトル入りのお茶が販売され、オーガニック指向の人にウケたりしている。

『お茶なんて買うものじゃない!家でお母さんに作ってもらいなさい』…これは、大半の日本人が一時期まで持っていた共通認識だったであろう。十数年前まで、日本のお茶は日本人が日本の住宅だけで愉しむものだった。
しかし、核家族化や若者文化も手伝っているのではあるだろうが、いつでも手軽に楽しめる緑茶、海外で外人も楽しめる緑茶、という利便性は、お茶とその生産者の地位向上に大いに貢献しているものと思われる。

言い過ぎでなく、緑茶は日本人の心であり、家庭の象徴とも言うべき飲料だ。いつどんなときでも、緑茶を口にするとなんとなく冬のコタツでボロテレビを見ながらのんだ湯のみとお茶を思い出せるし、おそらくこの先死ぬまでそうなんだろうと思う。
もし可能なら、家のお茶ももちろん大好きですよ、でも、家庭だけでなく外でお茶を買えるようになり、やっぱり良かったんですよ…、とそのオジサンにいまから言い返しに行きたいもんだ。