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【書評】日本人の行動原理を探る名著、『甘えの構造』(土居健郎)

 著と呼ばれる本は、時代を経てもその価値は色あせず、本質的な気づきを人々に与え続ける。この点、土居健郎氏のものした『甘えの構造』は、40年前の1971年に出版されたにも関わらず、未だ多くの人々に読まれ、考察されるあまりに有名な一冊だ。
この書では、土井氏は日本人の行動原理には、顕著に"甘え"が見て取れるという。冒頭では、日本語という言語の側面からこの甘えを抽出し、項を追うに連れ宗教観、学生運動、哲学、西洋との比較などを通し、日本人の言動にはどのように甘えが根ざしているかということを考察している。

〜前略〜
この母親は日本生れの日本語の達者なイギリス婦人であったが、たまたま話が患者の幼年時代のことに及んだ時、それまで彼女は英語で話していたのに急にはっきりとした日本語で、「この子はあまり甘えませんでした」と延べ、すぐにまた英語に切り替えて話を続けた。このことは見事に甘えの語の特異性と、同時にその後が表現する現象の普遍的意味を表していると思われたので、私は話が一段落したとき彼女に、さっきなぜ「この子はあまり甘えませんでした」ということだけ日本語でいったのか、ときいてみた。すると彼女はしばし考えてから、これは英語ではいえません、と答えたのである。

彼は精神科医としてのキャリアを通じ、この甘えという概念は日本語、日本人に特有なものだと看破する。彼の、甘えに対する定義をもっとも表した文章は次の一節であると思われる。

すなわち葛藤の原動力は好意をひきとめたいという欲望なのである。そしてこれはまさに甘えに他ならない。

彼は、この本の中で甘えを端的に"受身的愛情希求"という言葉で置き換えている。つまり、甘えとは個人が外部に認めてもらい、関係を構築・維持していきたいという欲求だと言う。
この考え方に沿うと、例えば"義理と人情"という言葉も、以下のように読み解く事ができる。

以上のべたことから明らかなように、義理も人情も甘えに深く根ざしている。要約すれば、人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。甘えという言葉を依存性というより抽象的な言葉におきかえると、人情は依存症を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫した世界であったといって過言ではないのである。

普段、我々は甘えという言葉をそう多く使わない。しかし、甘えに根ざした行動をとっているというのは確かにその通りで、色々な人間関係を振り返ってみると、確かになんらかの集団や個人に対して、受身的に何かを期待したり、実際に利便を受けたりしているような気がする。
さらに、土井氏は夏目漱石の『こころ』を引き合いに出し、甘えの不安定さについて以下のように警鐘を鳴らす。恋は甘えであり、甘えは罪悪であるという意識が先生とKとの友情を毒したと目する氏は、先生が「私」に甘えられることに対して臆病になったと指摘する。

甘えの挫折ないし葛藤は種々の精神的障害を引き起こす。仮に、甘えが恋愛・友情もしくは師弟愛という形で満足されたとしても安心はできない。満足は一時のことでかならず幻滅に終わるであろう。なぜなら、「自由と独立と己とに充ちた現代」に於いて、甘えによる連帯感は所詮蜃気楼に過ぎないからである。

この本の後半では、日本の社会分析や、学生運動についての描写に多くページが割かれている。さすがに、ゲバ棒を持ってバリケードを築いてたような世代は僕よりも当然はるかに上なので、あまり感情移入はできない。しかし、色々な本やマンガで学生運動について読んでいるので、理解するのに難はない。それに加え、1971年当時に、若者には両親とお互い甘え甘やかす関係にあり、幼時の葛藤が生き続けるままに両親とのつながりが断たれてしまったという。僕らの今生活している現代日本を思うに、今の老年世代が若者の頃にこのように指摘されていた事は、大変興味深い。ニュー・レフトと呼ばれていた思想勢力に対しても、土井氏は甘えを引き合いにだし大変批判的に記述している。
僕が今会社や社会を見渡してみると、そこかしこに甘えが存在する事にきづく。たとえば、今日見た光景では、選挙活動などで大声で自分の名前を連呼して回る候補者と応援者たち、これなども甘えのように思う。皆が迷惑しているはずなのに、名前を売るために臆面も無く騒音をがなりたてる。そして社会はそれを恒例行事とみなし許容する。甘える候補者に、甘えられる有権者だ。
他にも、世の中で成功しているサービスには、"甘えさせる"のがうまいとも考えさせられる。たとえばSNSにしたって、細かい比較を持ち出す事は避けるが、欧米で主流となったFacebookに比べて、日本で主流を担うmixiGreeなどは、より集団依存が強く個人の受身的愛情希求を促す要素が強いという点で、甘えといえないだろうか。Facebookは世界を席巻しているが、日本ではその話題性ほど普及していない。ここまで有名になってもここまで普及しないのだから、僕はこれ以上日本でFacebookを普及させるには、さらなる転換が必要なのではないかと考える。その転換が、いままでFaceboookが持ち得なかった"甘え"を組み込むと言えば、極論になるだろうか。
しかし、日本人でFacebookを敬遠する人たちの話をきいていると、やはり、"Facebookは甘えられないから"といっているように聞こえて仕方がない。事実、あまり甘えを必要としないような性格の人たちは、自由にFacebookになじみ、活用しているようにもみえる。

…と、往年の名著である『甘えの構造』、たくさんの示唆を与えてくれることはまちがいなし。必読の書といえる。おすすめ!!